後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を牛耳る北条義時の討伐を命じた「承久の乱」。結果的には、幕府側が圧勝し、以後、武家政権は盤石なものとなった。しかし、後鳥羽上皇が挙兵した時点では、決して簡単な戦いではなく、幕府は2つの作戦の間で揺れていた。立地的に守りやすい鎌倉に籠城するか、思い切って軍勢を京都に差し向けるか――。
朝廷の権威に立ち向かうことへの抵抗感が強い御家人も多いなかで、義時は果敢にも京都への進軍を決意。勝利を呼び込むことになった。だが、そこには一人の男による助言があったことは、それほど知られていない。「承久の乱」が起こった背景も踏まえながら、偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(JBpress編集部)
ターニングポイントとなった「実朝暗殺」
鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が暗殺されると、4代将軍は誰にするのか後継者探しが難航する。
といっても、実朝の暗殺を受けて、慌てて後継者を探したわけではない。実朝に子をもうける意思がないことはあらかじめわかっていたため、すでに4代将軍の候補は定めていた。後鳥羽院の皇子である雅成親王か頼仁親王のいずれかである。北条政子が自ら京に出向いて、後鳥羽上皇の乳母にあたる藤原兼子と対峙。交渉をまとめていた。
ところが、実朝が暗殺されたことで、後鳥羽上皇は幕府への不信感を強める。また、あわよくば、内部崩壊を期待したのだろう。上皇が大切な親王を鎌倉に送ることを渋ったため、将軍の座は空位となる。源氏の将軍が途絶えたうえに、次の将軍が決まらない状態が長引けば、御家人たちも動揺し、政権が不安定になってしまう。それこそが、上皇の狙いであった。
さらに、後鳥羽上皇はいきなり、長江・倉橋壮の地頭職を停止するように、北条義時に命じている。実朝が暗殺されたことで、鎌倉幕府が今どれくらい弱体化しているのか。上皇はそれを見極めようとして、無理難題をふっかけたのだろう。
義時も上皇の目論見はわかっているので、弱腰になるわけにはいかない。はっきりと拒絶している。
「幕下将軍の時に勲功の賞に基づいて任命した者たちを、これといった怠慢も無く改変しがたい」(『吾妻鏡』より)
「幕下将軍」とは源頼朝のことである。初代将軍のときに任命された地頭を、落ち度もなく変えるわけにはいかない、と義時は堂々と述べている。
朝廷の態度が変わったのを感じて、義時たちは親王を将軍として迎えることを諦める。方針を変えて、摂関家から三寅(頼経)を4代将軍として迎えることになった。
もっとも三寅は2歳と幼かったため、8歳で元服するのを待ち、その翌年に九条頼経(藤原頼経)として征夷大将軍に任命されることになる。いずれにしても幼年で自ら政務を行うことはできない。北条義時や北条政子が実権を握っている。
後鳥羽上皇からすれば、どうにも気に食わない展開となった。北条氏によって武家政権がかえって盤石になってしまうかもしれない。そうなる前にと、上皇は強硬手段に出ることになる。