岡山県倉敷市の五流尊瀧院にある後鳥羽上皇の御影塔(写真:PIXTA)

 承久3(1221)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に、討伐の兵を挙げた「承久の乱」。朝廷と武家政権が日本の歴史上、初めて武力で争うことになる。朝廷に再び権力を取り戻そうとした後鳥羽上皇だったが、挙兵からたった1カ月で敗北。幕府側の大勝という結果に終わった。はたして承久の乱は、その後の鎌倉幕府にどんな影響を与えたのだろうか? 北条義時や北条政子、そして三浦義村などキーパーソンの動向も含めて、偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(JBpress編集部)

戦後処理で三浦義村が存在感を発揮

 承久の乱において、上皇側の総大将に任じられたのが、後鳥羽上皇の近臣、藤原秀康である。秀康はまず、在京中の御家人である三浦胤義を仲間に引き入れることに成功。胤義の兄にあたる三浦義村とも連携して、北条義時を討とうと考えた。

 胤義は京都守護である伊賀光季を急襲。光季は、北条義時の後妻にあたる伊賀の方の兄であり、上皇からの協力を拒否していた。勢いに乗る胤義は京方の大将軍を任されて、総指揮を執ることとなった。

 数多くの在京御家人たちが続々と上皇に味方し、官軍に分があるかにも思えた。しかし、三浦義村は弟の胤義からの誘いを拒否。鎌倉時代の文献『吾妻鏡』によると、上皇側からの書状を持って義時のもとを訪ねて、こう言ったという。

「この義村は、弟の反逆には与せず、幕府の味方として無二の忠節を尽くすつもりである」
【義村、弟の叛逆に同心せず、御方(みかた)に於いて無二の忠を抽(ぬき)んずべし】

 もっとも『吾妻鏡』は北条得宗家の側から書かれたものであり、単なる事実の記録ではない。どうしても北条氏寄りになっているので読み解くには注意が必要だが、三浦義村の行動と照らし合わせても、この言葉に違和感はない。同様の発言があったのだろう。

 三浦義村が「鎌倉幕府を支持する」と態度を明白にした結果、有力御家人もその判断に従っている。三浦義村は幕府軍の勝利に寄与したキーパーソンの一人といえるだろう。承久の乱の戦後処理においても、その存在感を発揮する。