回を増すごとにSNSでも話題に上ることが増えていったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。最終回ではタイトルに込められた意味も明らかになり、大反響のなか放送を終えた。しかし、当然のことながら、実際の歴史はその後も続く。とりわけ、北条義時の跡を継いだ北条泰時からすれば、ここからがむしろ人生の正念場だった。幕府の最高権力者として辣腕を振るった父、北条義時の死後、鎌倉幕府は一体どうなったのだろうか──。偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(JBpress編集部)
“極悪人”のごとく扱われた北条義時
源氏将軍から実権を握り、鎌倉幕府で権勢をふるった北条義時。「承久の乱」においては皇室をも討って、3上皇(後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇)を配流している。そのうえ、かつては鎌倉幕府の第4代将軍として迎えようとした2皇子(雅成親王・頼仁親王)も容赦なく流刑に処したことで、義時の後世でのイメージは決定的なものになった。
源氏将軍に巧みに近づいて鎌倉幕府を牛耳ったばかりか、皇室にも弓引いた反逆者──。明治から戦前にかけての教科書を見ても、そんな“極悪人”のような扱いを受けてきたといっても言い過ぎではない。江戸幕府の幕臣、勝海舟のように「不忠の名を甘んじて受け、自身を犠牲にして国家に尽くした」と、義時を武家政権の確立者として評価する声は、例外的である。
62歳でこの世を去った義時の死因についても、『吾妻鏡』では病死とされているが、『保暦間記』では近侍による他殺、『明月記』では後妻のえ(伊賀の方)による毒殺を示唆している。あれだけ恨みを買ったのだから・・・という周囲の思いが、病死以外の死因についてあれこれと想像を巡らせることになったのではないだろうか。
だが、そんな毀誉褒貶も、義時がそれだけの影響力を持つ人物だったからこそ。義時の死によって、鎌倉幕府を取り巻く政情は極めて不安定なものになっていく。