後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を牛耳る北条義時の討伐を命じた「承久の乱」。結果的には、幕府側が圧勝し、以後、武家政権は盤石なものとなった。しかし、後鳥羽上皇が挙兵した時点では、決して簡単な戦いではなく、幕府は2つの作戦の間で揺れていた。立地的に守りやすい鎌倉に籠城するか、思い切って軍勢を京都に差し向けるか――。 鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が暗殺されると、4代将軍は誰にするのか後継者探しが難航する。 といっても、実朝の暗殺を受けて、慌てて後継者を探したわけではない。実朝に子をもうける意思がないことはあらかじめわかっていたため、すでに4代将軍の候補は定めていた。後鳥羽院の皇子である雅成親王か頼仁親王のいず
「承久の乱」北条義時に京都進撃を決意させた“あの男”の一言
なぜ後鳥羽上皇に立ち向かう大胆な策を打ち出すことができたのか
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