(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)
韓国の文在寅(ムン・ジェイン)前政権は、北朝鮮との境界線に近い黄海上で韓国海洋水産部の公務員であるイ・デジュン氏(以下“イ氏”)が北朝鮮軍によって射殺された事件(以下“西海事件”)で、イ氏が「自主的に越北しようとしたことが原因だ」との結論を下していた。
この事件には国家情報院、国防部、統一部などが関与していたが、尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権になって各省庁は「自主的な越北だった」という文在寅政権の判断を覆し、「自主的な越北の証拠はない」と結論付けた。こうした各省庁の判断の変更が、検察の捜査につながった。
北朝鮮に気兼ねして、自国民の生命の安全を守ることをせず
文在寅政権時代、「自主的な越北」の判断を確定させるため、国防部は「2020年9月23日午前1時の関係長官会議」後に、北朝鮮軍が(イ氏を)銃殺した状況が書かれた諜報報告書と傍受情報60件を軍事統合情報処理体系から削除し、国情院は諜報報告書など46件の資料を無断削除した、と監査院は見ている。
これを踏まえ捜査に着手した検察は、「当該公務員が自主的に越北しようとしたとの事実は前政権によって改ざんされたものである」と判断した。「自主的越北」の結論を導き出したのは、北朝鮮の蛮行を追及せずに早急に幕を引き、北朝鮮との関係悪化を防ごうとする文在寅政権の政治的な意図が反映していると見るのが自然だ。
そしてそのために、当該公務員が北朝鮮によって殺害されたことは黙殺された。文在寅政権は同人の生存中に事件を知っていた。これでは「国民の生命を保護する義務を怠った」と批判されても反論はできない。
徐室長など前政権幹部は、「自主的な越北」と食い違う「諜報報告」を削除したという疑惑について、10月27日に合同記者会見を開き、「諜報報告削除」ではなく「配布上の調整」があっただけと反論した。敏感な情報が不必要に流出するのを防ぐための措置に過ぎず、原本はそのまま残っており、閲覧は可能と主張する。
文在寅政権は、北朝鮮を擁護する姿勢を取り続けてきた。「金正恩氏には非核化の意思がある」と言い続け、米国のトランプ大統領を金正恩氏との会談に引っ張り出した。フランスのマクロン大統領との会談などでは北朝鮮に対する制裁の緩和を働きかけた。さらに北朝鮮の人権状況は無視してきた。
尹錫悦大統領には、文在寅氏の北朝鮮に対する擁護姿勢が、北朝鮮の核ミサイル開発を容認してきたとの大きな反省がある。このため、北朝鮮との関係で事実を改ざんし、安保危機を招いた前政権幹部の対応を正す必要があるとの思いが強い。
前政権幹部が如何に否定しようとも、西海事件もそうした視点から追及の手を緩めることはなく真相究明を続けるだろう。