前原一誠

(町田 明広:歴史学者)

「勇あり、智あり。誠実人に過ぐ」

 吉田松陰が安政3年(1856)から主宰した塾と言えば、松下村塾であることは周知のことであろう。松陰自身が教えた人数は諸説あるものの、100名足らずと言われている。その塾生の中で、名前を挙げるとなると、読者の皆さんは誰を選ばれるだろうか。

 松下村塾の四天王と言えば、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一であるが、その他、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、そして今回取り上げる前原一誠らが有名な塾生である。ちなみに、四天王は全員が明治まで存命することができなかった。

 松陰は前原を、「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ」と評している。松陰は、前原には勇気があり、智略があり、誠実さは誰にも負けないと称賛する。松陰は塾生の中でも、実直で飾り気がなく、才能豊かで誠実さに溢れる前原を特に愛した。

 今回は、松陰に最も似ていると言われることが多い前原一誠について、その生涯を追いながら人物像を明らかにし、そして何故、萩の乱による処刑という、悲劇的な結末を迎えるに至ったのか、4回にわたってその実相に迫ってみたい。

前原一誠の生い立ち

 前原一誠は、天保5年(1834)3月20日、佐世(させ)彦七の長男として、萩土原馬場丁に生れた。本姓は佐世氏で、諱は一誠、通称は八十郎(やそうろう)、彦太郎であり、雅号は多く、黙宇、梅窓、蕉雨などを用いた。佐世氏は尼子氏の一族で、戦国武将米原綱寛(尼子十勇士の1人)を遠祖としたが、近江の米原に土着したため、地名を家称とした。

 長州藩には佐世氏が3家あったが、前原は一番下の大組の佐世家(47石)に生まれた。しかし、長州藩では大組はれっきとした門閥階級であり、よって前原は上級武士団に属した。このことは、前原の藩内での活動に大いに寄与したのだ。

 前原姓は慶応元年(1865)、前原が米原の発音に近づけてその一字を改めたもので、別に末弟の一清をして佐世家を継がしめ、前原、佐世の2家が分立することになった。前原一誠の誕生である。

 天保10年(1839)、郡吏となった父に従い、萩から厚狭郡目出村に移住し、翌年から幡生周作について習字や素読を習った。弘化4年(1847)には、萩に戻って姉の嫁ぎ先である国司氏に寄宿して、岡本栖雲について読書に励んだ。

 嘉永2年(1849)になると、親戚の米原氏に寄宿して福原冬嶺につき漢籍を学んだ。なお、翌年に落馬して胸を強打し、しかも足を痛める重症を負った。前原は健康問題に終生悩まされ続けたが、この落馬事故が影響した可能性が高いと言えよう。