ロシアによるウクライナ侵攻で、「ボリス・ゴドゥノフ」が生々しい意味を持ち始めている(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

(林田 直樹:音楽ジャーナリスト)

 組曲「展覧会の絵」や交響詩「はげ山の一夜」で有名なロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキー(1839-81)が、生前に一つだけ完成させることのできたオペラが「ボリス・ゴドゥノフ」である。

 世界のオペラハウスでも、一流と言われる劇場であれば、この作品は必ずと言っていいほど上演される。ある人は、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」とムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」を、ロシア音楽の双頭の鷲のようなものだと言っていたが、それくらい重要な作品である。

 ボリス・ゴドゥノフとは、ロシアでは動乱時代と呼ばれた頃の、実在のロシア皇帝(在位1598-1605)であり、それを19世紀初めにプーシキンが戯曲化したものがオペラの原作となっている。

 その人気の秘密は、ロシアのために良かれと思って、賢い自分こそが皇帝になるべきだという信念のもと、前皇帝の幼い皇子の不慮の死をきっかけに即位した (実は秘密裏に皇子の殺害を命じたらしき) ボリスが、冷酷さと愛情深さを兼ね備えた、複雑な奥行きをもった魅力ある一人の人間として描かれている点にある。

 威厳ある独裁者が、最後は罪の意識と良心の呵責でもだえ苦しんで惨めに死ぬというドラマは、ムソルグスキーの迫真のある音楽ともども、国境を越えて多くの人々に愛されてきた。

 ところが、ロシアによるウクライナ侵攻以来、「ボリス・ゴドゥノフ」を上演するという行為そのものが、急速に生々しい意味を持ち始めている。