食堂車は寝台列車など長距離を走る列車に不可欠だった。写真は上野・札幌間を運行した寝台特急「北斗星」(写真:池口英司、以下も)

いま全国各地の鉄道で、食堂車を連結し、車中で食事を楽しむ「グルメ列車」の運転が花盛りである。もともとは長い時間を列車の中で過ごさなければならない乗客へのサービスとして登場した食堂車は、高速運転を身上とする今日の鉄道では不要のものとなった。だが、近年はその魅力が再評価され、車内で食事をすることを目的とする列車も運転されるようになり、多くの人を喜ばせている。そこで日本における食堂車の歴史を振り返りながら、その魅力を再検証してみよう。

(池口英司:鉄道ライター・カメラマン)

明治の私鉄に登場した日本初の食堂車

 食堂車、といっても若い人にはその姿を連想することが難しいかもしれないが、列車の中で食事ができる食堂車は、長い間、長距離を走る列車に不可欠の存在とされていた。

 新幹線のない時代には、「ブルートレイン」のように、一昼夜をかけて長い距離を走る列車が全国で運転されていた。それらに連結されていた食堂車は、列車内で長い時間を過ごす乗客のためのサービス施設であると同時に、豪華列車のシンボル的存在となっていたのである。

 食堂車の歴史は長い。

 日本で初めて食堂車が運転されたのは1900(明治33)年4月8日のことで、現在の山陽本線を建設した明治の私鉄・山陽鉄道が、大阪と三田尻(現在の防府)の間を走る1往復の急行列車に食堂車を連結した。使用された車両は1等寝台車と食堂車の合造車で、食堂車の定員は8名であったという。いまから122年前の出来事である。

 山陽鉄道は並行して走る瀬戸内海の汽船とシェア争いをしていたといい、この競争に勝つべく、さまざまな新サービスを展開した。列車に食堂車や寝台車を初めて連結し、列車にサービス係(ボーイ)を乗務させ、乗客に毛布などの貸し出しも行って、サービスの一つとした。食堂車を導入するにあたって、山陽鉄道は若手社員をアメリカに派遣してノウハウを学ばせたという。

 黎明期の食堂車では、パン食を中心として、ビーフステーキ、オムレツなどの洋風のメニューが提供された。1910(明治43)年の記録では、朝食(料理2品、パン、コーヒー)が50銭、夕食(スープほか3品、菓子、果物、パン、コーヒー)が1円、カレーライス、サンドイッチが20銭とある。

 値段設定の印象はいかほどだろう。当時の学卒者の初任給は35円程度であったというから、食堂車のメニューはそれなりの価格設定であるように思われる。