福井城本丸石垣の算木積み。規格化された石材をていねいに積み上げているのがわかる 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

●通好みの名城・福井城(前編)

(前編から)結局、忠直の嫡男だった光長は26万石で越後高田城に移される。替わって50万石で福井に入ったのは、高田城にいた忠直の弟の忠昌である。この家系が越前松平家として代々続くことになるわけが、兄弟への分知や当主の不行跡などが重なって石高は漸減し、江戸中期以降は30万石で落ちつくことになる。

 それでも、30万石の親藩なのだから、なかなかの有力大名だ。事実、幕末には松平慶永(春嶽)・橋本左内といった逸材を輩出している。

福井神社に建つ松平慶永(春嶽)の像。福井藩主だった春嶽は幕末の政局で重きをなした

 そんな福井城も、明治維新以降は公共用地や市街地となって、二ノ丸以下の石垣・堀も徐々に姿を消していった。さらに、第2次大戦時の空襲と昭和23年(1948)の福井大地震によって市街地は壊滅的な被害を受け、県庁となっていた本丸以外は復興の過程でほぼ消滅してしまったのである。忠直の件といい、空襲・地震が相次いだことといい、何とも不遇な名城なのだ。

 したがって、福井城を歩くときのポイントは、巨城の面影をいかに見出すか、にかかっている。見映えのする城=名城などという、つまらない先入観を捨てて向き合えば、この城本来の壮麗さ・堅固さを理解するのは、それほど難しくはないのだ。

 まずは、県庁の敷地として残った本丸を、じっくり歩いてみよう。多少なりとも城めぐりの経験がある方なら、堀幅が広いこと、石垣がしっかりしていることに気付くはずだ。

 石垣がよく整っているので、一見すると本丸は四角いプランをしているように思える。けれども堀端をぐるっと歩くと、石垣のラインがカチカチと折れて、本丸の全周にまんべんなく射線を張り巡らせていることがわかる。一説には、家康が直々に福井城の縄張を指導したと言うが、なるほど、麾下軍団の火力に自信がなければ、こんな設計はできなかっただろう。

 橋を渡って城内に入ってみよう。堀端から見て、石垣がしっかりしているように感じた理由が、近づいてみると具体的に飲みこめる。石のサイズや形が規格化されていて、積み方が整然としているのだ。しかも、表面の加工(ハツリという)がていねいなので、石垣全体がツライチに見える。技術水準の高さからいったら、全国でも十指に入る石垣だろう。

こんなていねいな積み方をしている石垣はそう多くない。いい仕事、してます

 本丸の内側から改めて見ると、天守台の大きさにも驚かされる。天守そのものは寛文9年(1669)の大火で消失してしまい、以後再建されることはなかったが、さぞかし75万石の太守にふさわしい壮麗な天守が建っていたことだろう。つくづく不運な城である。

天守台に残る礎石は過ぎし栄華のむくろだろうか

 天守台に上ったら、周囲の石垣をじっくり見てほしい。石垣の上面幅がかなり広いことがわかるだろう。本丸は四隅に天守と隅櫓を上げ、全周を渡櫓で囲んだ構造だったのだ。 明治初期の古写真に本丸巽(たつみ)櫓が写ったものがあるが、ずいぶん立派な三重櫓で、なまじな天守くらいはありそうだ。また、天守台の横から城外に通じる橋は、廊下橋が古写真に忠実に復元されている。廊下橋は城主専用の通路だが、現存例は皆無で復元例も珍しいから貴重だ(他に和歌山・大分)。

本丸に復元された廊下橋。藩主専用の通路だ
天守台から見た本丸石垣の上面。渡櫓が建っていたことがわかる

 ここまでわかったら、もう一度、本丸の堀端を歩いてみてほしい。ほら、壮麗な堅城のまほろばが、浮かぶでしょう? 実際は、この本丸を中心に二ノ丸・三ノ丸以下が五重の防禦線を構成していたのだから、恐れ入る。二ノ丸以下はほとんど市街地化してしまったが、街中にところどころ痕跡をたどれるから、時間のある方は探索してみるとよい。

柴田神社境内には発掘調査で見つかった北ノ庄城の石垣が再現されている。このあたりも近世福井城の城内だった

[参考図書] はじめて城を歩く人に読んでほしい、城の見方の基礎が身につく本、西股総生著『1からわかる日本の城』(JBprees)好評発売中!