(前編から)結局、忠直の嫡男だった光長は26万石で越後高田城に移される。替わって50万石で福井に入ったのは、高田城にいた忠直の弟の忠昌である。この家系が越前松平家として代々続くことになるわけが、兄弟への分知や当主の不行跡などが重なって石高は漸減し、江戸中期以降は30万石で落ちつくことになる。 それでも、30万石の親藩なのだから、なかなかの有力大名だ。事実、幕末には松平慶永(春嶽)・橋本左内といった逸材を輩出している。 そんな福井城も、明治維新以降は公共用地や市街地となって、二ノ丸以下の石垣・堀も徐々に姿を消していった。さらに、第2次大戦時の空襲と昭和23年(1948)の福井大地震によって市街地は
不遇の巨城・福井城の歩き方、家康が直々に指導したと言われる縄張り、石垣に見られる本来の壮麗さと堅固さ
通好みの名城・福井城(後編)
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