撮影/西股 総生

(歴史ライター:西股 総生)

知れば知るほどタダモノではない

「名城」というと、大勢の観光客が壮麗な天守を見上げて、しきりにカメラやスマホのシャッターを切る場所、というイメージがある。でも本来なら、写真映えがすることと、城そのものとして優れていることは、必ずしもイコールにならないはずだ。

 本当は優れた堅城なのだけれど、観光名所としてはいまいちパッとしない名城というものだって当然ある。見る人が見ればわかる、通好み・玄人好みの名城、といえようか。

 そんな通好みの名城の代表格が、福井城だ。現在、誰の目にもわかる形で残っているのは本丸の石垣と水堀で、その本丸も県庁の敷地になっている。だから、何も知らないと、ふーん、県庁のまわりに石垣と堀があるんだ、と通りすがりに眺めて終わってしまうかもしれない。でも、この城、知れば知るほどタダモノではないのだ。

今は県庁が建つ福井城の本丸

 というわけで、北陸新幹線の延伸によって首都圏からぐっと行きやすくなった越前福井城を、じっくり紹介してみよう。

 戦国時代に越前国を支配していたのは、朝倉氏である。朝倉氏は、現在の福井市から南東に10キロほど山あいに入った一乗谷を本拠として栄えたものの、織田信長によって滅ぼされる。織田軍の占領地司令官として入部した柴田勝家は、平野部にある北ノ庄に城を構えた。この北ノ庄城が、福井城の前身となる。

福井市内の柴田神社に建つ柴田勝家の像。北ノ庄城の中心部にあたるといわれている

 その柴田勝家も羽柴秀吉と戦って滅亡し、越前には諸将が入れ替わり封じられたが、関ヶ原合戦の戦後処理として結城秀康が入部する。結城秀康は徳川家康の次男だ。75万石をもって越前に入部した秀康は、北ノ庄城を廃して新たな城を築くことになる。これが現在の福井城で、完成は慶長13年(1608)である(福井と改称するのはもう少し後)。

福井城本丸の石垣。当地方で産出する笏谷石を用いて高精度で積み上げられている

 そもそも、家康が秀康に大封を与えて越前に入れたのは、加賀前田家に対する戦略配置である。そうして築いた城なのだから、タダモノであろうはずがない。福井城は、堅固な本丸を中心として、二ノ丸・三ノ丸以下が五重の防禦線を構成する巨大な平城で、本来なら名古屋城や、家康の居城だった駿府城にも比肩すべき名城なのである。

こちらは名古屋城。福井城も本当なら名古屋城に比肩すべき城だった

 ただ、この城は運に恵まれていなかった。まず、初代城主の秀康が、城の完成を見ることなく慶長12年(1607)に病没する。68万石で跡を継いだ嫡男の忠直は、大坂の陣で勇戦したものの論功行賞に不満を抱き、幕府に反抗的な態度をとり続けた挙げ句、所領を没収されてしまった。

 実は、この事件の背景には、若い忠直の増長や反抗心だけでは済まない複雑で宿命的な事情があった。そもそも家康の次男ながら庶子だった秀康は、家康が関東に入部した際、名族だった結城氏に養子に入る形で大名に列せられていた。落ちぶれていたブランドを買い取って、息子を社長に送り込んだようなものだ。

福井城本丸にある「福の井」。福井という地名の元となったとされる

 このため、秀康の家中には旧結城系家臣団と、徳川系家臣との間で軋轢が生じることとなった。合併で大きくなった企業の内部で派閥抗争がやまない、みたいな話なのだ。その結城家が、下総結城10万石から越前75万石へと一挙に拡大して、石高に見合うだけの家臣をかき集めたのだから、ひずみも大きくなる。

 しかも、ほどなく秀康が没して、跡を継いだ忠直は弱冠13才。家中の統制がとれるわけがなかった。大坂の陣に赴いた時点で20才忠直は、将軍家一族としての強い自負心を持った、血気盛んな若武者だ。それが波乱含みの家臣団を率いていたのだから、問題が起きるのも致し方のないことだったのだ。(後編に続く)

福井城本丸の石垣。堅固に築かれた石垣にも福井地震によるひずみが生じている

[参考図書] はじめて城を歩く人に読んでほしい、城の見方の基礎が身につく本、西股総生著『1からわかる日本の城』(JBprees)好評発売中!