(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
目立った事績が記録されていない全成
梶原景時が討たれてから3年後の建仁三年(1203)4月19日。頼朝の弟で僧籍にあった阿野全成(あのぜんじょう)は、突如として謀叛の嫌疑で逮捕され、ほどなく斬られました。
鎌倉幕府の中で、全成がどのような立ち位置だったのかはよくわかりません。史料の記載が少ないためです。もちろん、僧侶ですから仏事などには与っていました。また、僧侶なら読み書きができますから、文官的な立場で頼朝や頼家を陰ながら補佐する場面もあったのかもしれません。
とはいえ、目立った事績が記録されていないというのは、やはり地味な存在だったからでしょう。こうした事情を踏まえて、『鎌倉殿の13人』では何ともビミョーなキャラとして描かれています。
そんな全成がなぜ粛清されてしまったのか、正直なところ、よくわかりません。事実として記録されているのは、
1.ある日突然、謀叛の嫌疑で逮捕されたこと
2.全成の妻(阿波の局=政子の妹・ドラマでは実衣)の身柄を引き渡すよう、比企能員が要求してきたが、政子が突っぱねたこと
3.常陸に送られて、そこで斬られたこと
くらいなものです。ただ、比企能員が主体的に動いていることから見て、北条vs.比企という権力闘争の犠牲になったことは間違いなさそうです。
以前にもこの連載で述べたように、頼朝の晩年には鎌倉で何かドロドロした暗闘が起きていたらしいのです。それはおそらく、頼朝の後継体制をどうするか、という問題に起因するものだったのでしょう。
ただ、このときに没落した大物御家人は確認できません。主だった御家人たちは皆、頼朝のときと同じように、頼家に仕えています。したがって、大物の粛清や失脚のような事件は起きなかったことがわかります。
これは、一つには頼朝が健在なうちは、御家人同士で表立ったつぶし合いができなかったからかもしれません。ただ、それだけではなく、さまざまな立場や思惑、利害が複雑に交錯していて、「A対B」のような簡単な図式に収まらなかったのかもしれません。
このドロドロは、頼朝が急死したことで一旦は小康状態に入り、宿老衆による集団指導体制が模索されました。ところが、宿老衆の中から、まず梶原景時が脱落し、中原親能が抜け、三浦義澄と安達盛長が世を去ります。
こうして、古参メンバーが抜けていった結果、「北条vs.比企」という構図が浮かび上がることになりました。というより、さまざまな要因が複雑に交錯していたドロドロが、「北条vs.比企」の関係に集約されていった、と考えた方がよいのかもしれません。
比企能員としては、全成と阿波の局を排除することで、北条方の力を削ぎたかったのかもしれません。阿波の局は千幡(頼家の弟=実朝)の乳母である以上、北条方が頼家を廃して千幡を擁立する動きに出る怖れがあったからです。
ただ、結果として全成の一件は、次の大きな事件の引き金を引くこととなってしまったのです。
※実は某ドラマのスタッフさんも愛読している拙著『オレたちの鎌倉殿』(主婦と生活社 1400円)。今からでも間に合う大河ドラマの参考書として、皆さんもぜひご一読下さい!