(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
「タネをまくのも務めのうち」だったが・・・
急死した頼朝の後を継いで鎌倉殿となった、若き頼家。鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鏡』を読むかぎり、頼家は政務に積極的な姿勢を見せていますし、各種の行事も怠ることなく、文化事業などにも力を入れていた様子がうかがえます。
でも、残念ながら頼家の意欲は空回りしがちで、多くの御家人たちの信頼を勝ち取ることができませんでした。背景にはもちろん、ドラマでも描かれているような、北条氏と比企氏との権力争いがありました。ただ、それだけではなさそうです。頼家は、どこで間違ったのでしょうか?
『吾妻鏡』によれば、安達景盛の妻を見そめた頼家は、配下の御家人に命じて景盛の屋敷から妻を拉致させたことになっています。若気の至りゆえの暴走は実際にあったのでしょうが、『吾妻鏡』が話を盛っている可能性もあります。
この件、ドラマの中では頼家が「父上だって同じことをしたではないか」と不満をぶちまけていましたね。たしかに、頼朝もあちこちの女性に手を出していましたが、さほど非難はされませんでした(政子は許してくれませんでしたが)。これには、ワケがあります。
この連載の第10回でも説明したように、もともと武家の棟梁にとって「タネをまくこと」は務めのうちでもありました。各地の武士たちと結びつきながら、自分の家の勢力を広げるためです。伊豆でゼロから挙兵した頼朝は、各地の武士たちと結びついて勢力を広げなければならない立場にありましたから、武士たちも「タネをまくのも務めのうち」と思ってくれたのです。
ただし、いったん鎌倉に政権ができると、フェイズが変わります。頼朝は、鎌倉殿の地位を固めるために、ライバルになりそうな者たちを蹴落としてゆきました。同じ源氏の血を引く甲斐源氏や佐竹氏を圧伏し、木曽義仲・義高や叔父の行家、弟の義経や範頼までも、抹殺していったのです。
ところが、その頼朝が後継体制を確固たるものにしないまま急死して、頼家が後を継いだため、さらにフェイズが変わりました。このまま頼家を擁護する派と、頼家以外の誰か(実朝・全成)を擁立したい派の思惑が入り乱れて、多数派工作が始まるからです。
こうなると、「タネをまくこと」そのものが幕府にとってリスク要因になってしまいます。頼家が正妻以外の女性に手を出せば、女性の実家との結びつきが生まれますし、後継者の選択肢が増えること自体が、幕府にとっての不安定要因になりかねません。若い頼家は、こうした自分の立場や、フェイズの変化が飲みこめていなかったようです。
もう一つ指摘しておくと、生まれたときから鎌倉殿になることを約束されていた頼家には、決定的な失敗の体験がありません。頼朝の場合、平治の乱で負けて敗走中に捕らえられ、伊豆で長い流人生活を送り、挙兵したとたんボロ負けして潜伏・逃走しています。この体験が、頼朝にある種の人間不信や強烈な権力欲を植え付けた可能性は否定しません。ただ一方で、忍耐力や胆力を養ったのも間違いないでしょう。
ところが、決定的な失敗の原体験をもたない頼家には、「物事が計画どおり、自分の思いどおりに進まない」ことへの耐性がありません。御家人たちの中に、「焦る頼家を何とか支えていこう」と考える者と、「頼家を見切って他の選択肢を探そう」という者とが出てくるのは、避けられなかったのでしょう。
若さゆえに、頼朝と自分との立場の違い、頼朝時代とのフェイズの変化を認識できなかったところが、頼家の悲劇だったようです。
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