JR相模線寒川駅近くにある梶原景時館趾

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

SNSが無くても変わらない人間の本質

 結城朝光のふとした「つぶやき」がきっかけとなって起きた、梶原景時の追放事件。噂が噂を呼んでバッシングが起きる、鎌倉版の「炎上案件」です。人間の基本的な心理や行動は、SNSがあろうが無かろうが本質的には変わらないものですね。

 ところで、この事件に関して、『吾妻鏡』にはちょっと面白いエピソードが記されています。

 景時の排斥をもくろんだ三浦義村と和田義盛は、同志たちと鶴岡の境内に集まって気勢を上げます。そして、景時の弾劾状を頼家に提出しよう、と盛り上がりました。ところが、弾劾状を書ける者が誰もいません。

梶原景時

 そのうちに公事奉行人、つまり文官の中原仲業(なかなり)という者が、たしか景時に恨みを持っていたはずだ、という話が出て、仲業に弾劾状の作成を頼むことになりました。やがて、弾劾状をもった仲業がやってきて、一同がそこにサインを加えて御所に提出した、というのです。

 このエピソードからわかるように、当時の地方武士たちのほとんどは、満足に読み書きができませんでした。のちに北条泰時は、武士による初の成文法である御成敗式目を定めましたが、その前文に「武士たちは読み書きが苦手な者が多いので、この式目も彼らが読めるように仮名で書いた」と記しています。

 武士たちだって、自分の名前くらいは書けたでしょう。仮名書きの簡単な手紙くらいなら、書けた者もいたでしょう。でも、公用文や証拠能力のあるビジネス文書となると、話は別。今回のドラマでは、わりあい知的な雰囲気を漂わせている三浦義村も、公用文レベルの読み書きは無理、というのが実態だったのです。

朝比奈切通し内にある大刀洗水。梶原景時が上総広常を謀殺しここで太刀の血糊を洗い流したと伝われる

 現代にたとえるなら、海外旅行で買い物をしたり、ホテルにチェックインするくらいの英語なら何とかなるけど、技術書や契約書などのビジネス文書となると、やはり専門家の手を煩わさなければ、みたいな話です。

 なぜなら、平安〜鎌倉時代の公用文やビジネス文書は、漢文で書かれていたからです。全文が漢字で書かれていて、今の漢文の教科書のような返り点も句読点もない、いわゆる白文です。これを日本語として読み書きするわけですから、公用文は全部英語、みたいな世界なのです。

 高校の古典で、漢文の時間に苦労したことを思い出して下さい。さらに、漢文を自分で書こうとすると、日本語を頭の中で漢字の言葉遣いに変換して語順を並べ替える、という論理的な作業が必要になります。つまり、日本語を漢文として読み書きするためには、専門的な訓練を積まなければならないのです。

源賴朝が鎌倉入りを果たす前からあったという御霊神社(坂ノ下)。当初は鎌倉党の先祖全員を祀っていたが、やがて、梶原景時の先祖である鎌倉権五郎景正のみを祀るようになった。

 当時の関東には、もちろん学校などはなく、教えられる人もいません。それどころか、紙そのものが高価な貴重品。貴族や高僧ですら、日記のような私的な書き物には裏紙を使っていた時代なのです。田舎の武士たちは、紙や文字に触れる機会すら限られていた、と考えてよいでしょう。

 だからこそ、京下りの文官たちを頼朝は優遇したのです。文官たちの力を借りなければ、幕府の実務を動かすことはおろか、景時の弾劾状すら作成できなかったのです。 

 

※ 今からでも間に合う大河ドラマの参考書、拙著『オレたちの鎌倉殿』(主婦と生活社 1400円)。 考証の打合せでNHKに行くたびに、スタッフさんから『オレたちの鎌倉殿』愛読してます、と言われます(笑)。皆さんもドラマ鑑賞のお供にぜひ!