連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

源頼朝。鎌倉時代では正室の定義も明確ではなく、男性が女性の元に通う通い婚の相手が何人いても、それは不自然なことではなかった

『平家物語』では「鎌倉殿」とは頼朝を指している。「鎌倉殿」とは、いまでいう鎌倉幕府のことで「幕府」という言葉は江戸中期以降用いられた言葉である。

 古今東西、功成り名を成した偉人の多くが複数の女性と交わっているのは、性的欲求とは人間の最も強力な精気であり、それは何かを為し得るための猛烈な活動力へと変換された結果によるものだからではないか。

 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は清和天皇の流れを組む源氏嫡流であり、妻や妾を複数抱えていた。

 遊女と称される女性といえば遊廓や宿場で男性に性的奉仕をする娼婦、売春婦を連想するが、平安時代、武将と一夜をともにした遊女はそうした女性を意味するものではない。

 なぜなら平安時代や鎌倉時代の遊女とは武将や神官など、それなりに家筋のしっかりした娘であり、妾であっても、身分に過不及無く、むしろ夫人ともいえる立場にあった。

 当時の結婚の形態は男性が妻や妾の住まいに同居せず、訪ねて何日か暮らす「通い婚」が一般的だった。

 そのため、鎌倉時代では正室の定義も明確ではなく、男性が女性の元に通う通い婚の相手が何人いても、それは不自然なことではなかった。

 そして、誰が正室(正妻)かの決め手としては、夫が最初に婚姻を結んだ女性、夫の愛情の最も深い女性、身分の最も高い女性、最初に摘出子を産んだ女性など、その資格には様々な要素があった。

 平治元(1159)年、頼朝が13歳の頃、「平治の乱(1160)」で父・義朝が首謀者の一人として討ち取られると、頼朝は伊豆国へ配流された。

 監視役として、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受ける伊東祐親と伊豆国の在地豪族の北条時政が当てられた。

 頼朝は当初、伊豆半島で最も権勢を振っていた伊東祐親の監視下に置かれた。