大八木弘明~働きながら走り続けた会津っぽ
青山学院と並ぶ今年の優勝候補の駒澤大学を率いるのはコーチとして26年間、監督として17年間、同大学で指導に携わってきた大八木弘明氏である。
出身は福島県の会津盆地に位置する河東町(かわひがしまち、現・会津若松市河東町)で、言葉の端々に東北訛りがある。会津人は、最も東北らしい気質を持ち、上下関係に厳しく、口数が少なく、地道な努力家であると言われる。またこの人の人生には常に長距離走という1本の筋が通っていて、ぶれていない。筆者は大八木氏を理解するキーワードは会津人気質と陸上競技への情熱であると見ている。
大八木氏の人生は波乱と努力に彩られている。中学3年のときにジュニアオリンピックの3000mで5位に入賞し、将来を嘱望された。先輩が会津工業高校から日体大に進んで箱根駅伝に出場していたので、自分もいつか箱根駅伝を走ってみたいと思い、同高校に進学。しかし、練習をやり過ぎたため、疲労骨折を起こし、高校時代はほとんど実績を残せず、大学から誘いもなく、家庭の事情から進学もできなかった。印刷機械メーカー、小森印刷(現・小森コーポレーション、本社・東京都墨田区)に就職して競技を続け、怪我も回復した入社4年目(22歳)の全日本実業団駅伝では、各チームのエースが走る最長の6区を区間3位で走り、注目を浴びる。それを契機に箱根駅伝への夢を取り戻し、会社を辞めて川崎市役所に就職し、2年間トレーニングと受験勉強を続け、24歳で職場に近く、夜間部がある駒澤大学に入学した。
ここから4年間、働きながら競技と学業を続けるという過酷な日々を送った。朝7時に起床し、夕方まで勤務先である小学校で事務職員として働き、昼休みに多摩川の土手を8km走り、終業後は等々力の東急のグラウンドで1時間強練習、午後6時半には大学に行き、午後9時半まで授業を受け、夕食や雑用をして寝るのは午前零時頃。陸上部で練習するのは週末と合宿のときだけだった。当時を振り返って「よく4年間続けられたと思う。もう一度やれと言われてもとてもできない」と語っている。
自活のために働きながら競技を続けざるを得ず、本来できるはずの練習もできなかったが、他方、20代後半という長距離ランナーとしてピークの時期に箱根駅伝を迎え、1年時に5区で区間賞、2年時に2区で区間5位、3年時に2区で区間賞と大活躍した(4年時は当時あった「27歳まで」という年齢制限で出場できず)。
卒業後、ヤクルトに入社し、33歳まで競技を続け、引退後は同社でコーチとなった。36歳だった1995年に母校・駒澤大学のコーチに迎えられ、2004年に監督に就任した。1年生は全員丸坊主にし、妻に頼んで学生寮の食事をつくらせ、それまでのやり方を変えることに反発する部員たちと対立しながら規律を導入し、就任前には箱根駅伝で総合13位だった母校を2年後には復路優勝・総合6位まで躍進させた。
恵まれない環境下にあって、努力と情熱で競技を続けてきた自分自身の経験から、大八木氏が学生に対してもそうした姿勢を求めてきたことは想像に難くない。青山学院の原監督と違って「遊び」の部分(心の余裕)が少ないようにも見える。有名になった「男だろ!」という掛け声にも、そうした一途で、苦学生だった生き様を感じさせる。ただ学生に対して厳しいのは原監督も同じで、監督は選手に舐められると言うことを聞かせられなくなる。大八木氏は「今の学生はメンタル的に弱く、あんまり言うと、しゅんとなって部屋で寝込んでしまう」とも話しており、学生との接し方も徐々に変え、指導者としての円熟味を増している。
今年の駒澤大学は、10000mで大迫傑氏の持つ日本人学生記録を約15秒も更新する27分23秒44をマークした田澤廉選手(3年)ら、スピードランナーがずらりと揃っており、選手全員が箱根駅伝の距離であるハーフマラソンに特化している青山学院とどのように戦うか見ものである。