1946年冬、デイビッド・ラール大佐は家族を日本へ呼び寄せた。妻のキャサリンは長男デイビッド・ジュニア(当時11歳)と次男ピーター(当時9歳)を連れて、船で横浜港へ到着し、連合国軍が用意した目黒の一軒家に落ち着いた。
ひさびさの一家団欒の日々が始まった。家には英語のできる世話役の男性と、若い女性のお手伝いさんがいた。父は毎日車を運転して日比谷の連合国軍総司令部へ通勤した。東京には信号がなかったので、20分ほどで到着した。自宅の庭には大きな樹木があり、いたずら盛りの兄弟は木登りしたり、家の回りに広がる畑を駆け巡ったりした。一度、両親が不在の時、父の書斎に置いてあった拳銃を持ち出してふたりで遊んでいた時のことだ。
「なぜか銃が暴発してしまった。弾がビューンと音を立てて壁に跳ね返り、部屋中飛びまくった。僕たちは驚いて首を竦めてテーブルの下に隠れたけど、後で、すごく叱られたよ!」と、ピーター氏は昨日のことのように語って、声をたてて笑った。
マッカーサー総司令官の子息も含め、米軍将校の子供たちが6、7人いて、マッカーサー総司令官の官舎でも遊び、噴水に飛び込んで、全身ずぶぬれになった。応接間のテーブルに兵隊のミニチュアが置いてあったので、それを手にして皆で戦争ごっこをしていたことがある。その時、マッカーサーが部屋に入ってきて、苦い顔をした。後で聞けば、マッカーサーはミニチュアの兵隊を使って、作戦を練るための布陣を考えていたのに、それを動かされて困ったが、怒らなかったという話だ。
他にも、家族で富士山へ登った思い出や、赤い消防車に乗せてもらったこと、畑のため池にはまって糞尿まみれになった話。ホームパーティーに招かれた白洲次郎の印象など、さまざまな楽しい話を聞かせてくれた。
燃料不足による墜落事故
だが、1947年8月、ピーター・ラール大佐はマッカーサー総司令官の親書をアメリカ大統領へ届けるため、ハワイ経由でワシントンへ向かう途中、ハワイ沖西100マイルの地点で墜落して行方不明になった。付近の海域は鮫の生息地だった。
米国陸軍は直後から厳密な原因究明を行い、後に800ページにのぼる報告書を作成した。墜落の原因は、米軍機の機長が給油を忘れたためのガス欠だったとされた。
ピーター少年が父親とともに過ごした年月は、日本で暮らした一年半を含めても、一生のうち僅か四年半に過ぎない。その大半は幼い時期で記憶になく、日本は歓喜と苦痛に満ちた鮮烈な記憶の地になった。
父、デイビッド・ラール大佐の極秘資料と戦後秘話をつぶさに語ったピーター・ラール氏は、米国でコロナ禍がまん延する直前の2019年12月に病気で亡くなった。享年83歳。ご冥福を祈る。この原稿を書くために遺族にお願いして、ピーター少年が日本に滞在していた時期の家族写真を探してもらったが、大量の写真に埋もれて見つけられなかった。
「なにしろ百年も前の写真ですからねえ・・・」と、孫のひとりが笑って口にした。
さて、あなたは、祖父母のなにを知っている?