1945年9月2日、米軍艦ミズーリ号に降伏文書調印のため乗船した重光葵(前列のシルクハットの人物)。隻脚でステッキが欠かせなかった重光がスムーズに乗船できるよう、ラール大佐は細心の注意を払ったという(写真:Universal Images Group/アフロ)

(譚 璐美:作家)

 今年の夏もすっかり終わろうとしている。日本では毎年8月になると、メディアが一斉に「終戦記念」特集を組んで、第二次大戦で敗戦した日本の惨状を伝える。だが、今年は東京五輪やパラリンピックの開催が重なったせいか、戦争の記憶を呼び起こすような報道は例年ほど多くはなかったようだ。

 ただ私はこの時期になると、日本の敗戦とその後の占領期に関わった、ある米国軍人を思い出す。彼は終戦の年の夏に日本にやってきてマッカーサーの右腕として活躍し、そして2年後の夏、太平洋に散った人物だ(前編から続く)。

(前編はこちら) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66804

降伏文書調印の場に立ち会ったラール大佐

 米国在住のピーター・ラール氏の父であるデイビッド・ラール大佐は、終戦当時、マッカーサーの側近として日本に占領政策に深く関わり、「ミズーリ号」の調印式の設営を取り仕切った実務責任者だった。ピーター・ラール氏は、彼の父が残してくれた大量の米軍資料を手にして、当事者しか知らない数々の「歴史秘話」を語った。

父ラール大佐の写真に見入るピーター・ラール氏(撮影:Q.Sakamaki)

 ピーター・ラール氏が保管している資料の中に、当日の「ミズーリ号」の乗船許可証があった。写真入りの名刺大のもので、「連合国軍に対するに日本軍の正式な降伏調印式典に参加する許可証」とあり、中央に「D・ラール大佐」の文字がタイプ印刷され、その下にマッカーサー元帥ほか米国海軍の代表者3名のサインがある。裏を返すと、「D・ラール大佐は1945年9月2日0900時に行われる降伏式典のために、ミズーリ号に乗船することを許可された」とあり、H・ベネット・ホィップル大佐のサインがある。