足が不自由な重光全権に絶妙の配慮

 当日の朝、ラール大佐にはもうひとつ気がかりなことがあった。重光葵全権が上海在勤時代に爆弾で負傷し、右足を失っていたことだ。不自由な身体で舷梯をよじ登り、艦船に乗り込めるかどうか。安全策としては籠で吊り上げる方法があるが、仮にも一国の代表であるから尊厳を重んじなければならない。過剰な対応をしては非礼になるが、放っておく訳にはいかない。思案した挙句、乗員数名に命じてそれとなく身辺で見守りながら、必要に応じて十分に手を貸すようにと指示を与えた。

 はからずも重光葵外務大臣は手記(『重光葵手記』、中央公論社)の中で、この日の午後、天皇に拝謁したときのことを、こう記している。

「陛下は記者(重光)に対して、軍艦の上り降りは困っただろうが、故障はなかったかと御尋ねになった。記者は先方も特に注意して助けて呉れて無事にすますことを得た旨御答へし、先方の態度は極めてビジネスライクで、特に友誼的にはあらざりしも又非友誼的にもあらず、適切に万事取り運ばれた旨の印象を申し上げた」

 この「極めてビジネスライク」であった印象の陰には、ラール大佐らアメリカ側の必要十分にして、かつ押しつけがましくないよう対応しようという繊細な配慮があったのである。

ミズーリ号の甲板にて降伏文書に署名する重光葵(写真:TopFoto/アフロ)

 降伏文書はこの時二部調印され、米国と日本が一部ずつ持ち帰ったが、米国側では調印直後に4枚のコピーを取り、その内の1枚をラール大佐が所持した。そしいてラール大佐の長男デイビッド・ジュニアはそれを公式文書と寸分違わぬよう製本して、父の遺品とともに大切に保管した。