(譚 璐美:作家)
今年の夏もすっかり終わろうとしている。日本では毎年8月になると、メディアが一斉に「終戦記念」特集を組んで、第二次大戦で敗戦した日本の惨状を伝える。だが、今年は東京五輪やパラリンピックの開催が重なったせいか、戦争の記憶を呼び起こすような報道は例年ほど多くはなかったようだ。
ただ私はこの時期になると、日本の敗戦とその後の占領期に関わった、ある米国軍人を思い出す。彼は終戦の年の夏に日本にやってきてマッカーサーの右腕として活躍し、そして2年後の夏、太平洋に散った人物だ。
フィリピン奪回のための参謀
ニューヨーク在住のピーター・ラール氏に初めて取材したのは、10年以上も前だった。彼の父・デイビッド・ラール氏は米国陸軍大佐で作戦スペシャリストとして知られ、終戦直後に日本を占領した連合国軍のマッカーサー総司令官の側近でもあった。
父親譲りの几帳面なピーター氏は、父に関する当時の極秘文書や手紙を収集・整理し、彼自身も少年時代に母キャサリン、兄デイビッド・ジュニアとともに、日本で数年間滞在した体験をもつ。当時の様子を知る貴重な証言者だった。
父のデイビッド・ラール大佐は、ウェストポイント陸軍士官学校出身。陸軍派遣生としてマサチューセッツ工科大学(MIT)で機械工学を学び、ワシントンの陸軍参謀本部で勤務した。
1942年、真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が勃発すると、フィリピン諸島で劣勢を強いられたマッカーサー将軍はオーストラリアへ撤退を余儀なくされる。そこにラール大佐がフィリピン奪回作戦のための作戦参謀として派遣され、マッカーサー将軍に合流。その時に考え出した「蛙飛び作戦」が、その後の太平洋戦争で連合国軍が守勢から攻勢へと転じるきっかけになったことから、「太平洋戦争きっての名作戦家」と評され、文武両方の勲章を授与された。