鹿児島市の泉公園にある五代友厚の銅像 写真:w.mart1964/イメージマート

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(17)「五代友厚①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66374
渋沢栄一と時代を生きた人々(18)「五代友厚②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66375

遣欧使節・柴田剛中の密航留学生への対応

 慶応元年(1865)閏5月、幕府は横浜製鉄所の建設準備および軍制調査のため、外国奉行柴田剛中を正使とする総勢10名の使節団をフランス・イギリスに派遣した。フランスとの間では、製鉄所建設と軍事教練に必要な協定を締結できたが、イギリスとの交渉は不調に終わった。この件については、当時、薩摩スチューデントの寺島宗則がイギリス外務省と交渉中であり、彼が妨害工作をした可能性が指摘できる。

1865年、ロンドンでの柴田剛中。Photos: Herbert Watkins - 215 Regent Streets. London. 1865, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 ところで、11月2日(1865年12月19日)、柴田らはイングランド銀行を視察した時、長州ファイブと薩摩スチューデントの新納久脩・五代友厚・堀孝之の記帳を発見して驚愕した。田辺太一ら随行員は、柴田に幕府の許可なく渡欧した密航留学生を召喚し、事情を質した上で取り締まることを要請し、さもないと幕府は日本政府として西欧から認められなくなると迫った。

 しかし、柴田は藪蛇になるとして、その提案を拒否したため、幕府要路と密航留学生の歴史的なロンドンでの接触の機会はなくなった。田辺は、こうした事なかれ主義を訝しみ、大いに不満を感じていた。なお、こうした柴田の消極的で曖昧な態度は、パリ万博問題でも引き継がれる。

 一方で、柴田はイギリス外相に幕府の許可なく渡航した留学生を、海軍学校に入学させないように要請するなど、密航留学生たちの修学の妨害を実行した。これは、帰国後にまったく手を打たなかったことが問題視されることを恐れたためであったが、ロンドンでの密航留学生との接触を極端に嫌い、随行員にも接触を避けるよう徹底した指示を出した。

 こうした行為に対し、五代は柴田の態度を俗物と切り捨て、柴田は帰国後、薩摩スチューデントへの対応について、どう申し開きすべきかのみに苦心惨憺であると嘲笑った。五代は、この程度の人物しか派遣できない幕府の実態を痛烈に批判しており、幕府を完全に見捨てた態度をとったのだ。