五代友厚

(町田 明広:歴史学者)

五代友厚という人物

 五代友厚は幕末維新史におけるキーマンの一人であるが、あまり取り上げられることが多くなかった人物と言えよう。しかし、NHK連続テレビ小説『あさが来た』の中で、ディーン・フジオカが五代を演じたことで、一躍脚光を浴びる存在となった。現在放映中の大河ドラマ『青天を衝け』では、ディーン・フジオカが再び五代を演じており、話題になっていることをご存じの方も多いのではないか。一方で、五代についての理解度はいかがなものであろうか。

 その生涯を概観すると、天保6年(1835)12月26日、薩摩藩士で儒者兼町奉行の五代直左衛門秀堯の次男として生まれ、幼名は徳助、才助、また松蔭と号した。長崎で航海、砲術、測量などの技術を習得し、文久3年(1863)7月に勃発した薩英戦争に参加し、捕虜となったがすぐに解放されている。

 慶応元年(1865)、藩命により留学生(薩摩スチューデント)を引率し、ヨーロッパ各地を視察しながら、武器、船舶、紡績機械などの輸入を行い、薩摩藩の産業振興に大きく寄与した。

 維新後、新政府に外務・財務官僚として仕えたが、明治2年(1869)に会計官権判事を最後に退官した。その後、実業界に転じ、大阪を本拠として活躍を始める。金銀分析所、弘成館(買収鉱山の統括機関)、朝陽館(製藍工場)を設立するなど、実業家・政商として成功をおさめると同時に、大阪の産業の近代化に貢献した。

 さらに、大阪商工会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立および指導に尽力し、大阪経済界の重鎮として、商工業の組織化、信用秩序の再構築に貢献した。なお、明治14年(1881)、開拓使官有物払下げ事件の中心人物として非難されてきたが、五代は関与しておらず、それを公言しなかったことによる評価であることが判明している。

 ところで、五代は大久保利通と幕末期から気脈を通じていた。維新後は、富国強兵・殖産興業の政策において意気投合し、征韓論争後の政府の分裂を回避するため、大阪会議(明治8年)では大久保に協力して、会議を成功に導いた影の立役者として再評価されている。

大久保利通

 五代は、明治18年(1885)9月25日、49歳の若さで没した。五代の短い生涯においては、主として明治以降の活躍が取り上げられがちである。しかし、本シリーズで見ていくとおり、幕末維新期の五代の活躍も、筆紙に尽くし難い。

 一方で、残念ながら、五代はその時代に活躍したメンバーの中に、なかなかその名前が挙がらない。これは明治に入ってすぐに、政治家の道ではなく、財界人に転身したことによろう。五代がそのまま政治家を志し、もう少し長生きできれば、総理大臣も夢ではなかったと個人的には確信している。