(町田 明広:歴史学者)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(17)「五代友厚①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66374)
五代と薩摩スチューデント
元治元年(1864)5月ころ、五代友厚はトーマスグラバーの助力を得て、長崎で完成させた薩摩藩の富国強兵・殖産興業・留学生派遣に関する上申書を、薩摩藩家老・小松帯刀に提出した。藩内においては、五代は小松・大久保利通と特に親しく、小松は亡命している五代の身を案じて、上海行きを勧めたほどである。
ちなみに、明治になって、小松亡き後、五代は小松の遺族を保護している。その小松の斡旋により、五代が藩への帰参を許されたのは、同年6月とされる。そして、五代のプランは薩摩藩の最高権力者で国父と称された島津久光の裁可を経て、留学生の派遣が最終的に決定したのだ。
それでは、実際に選ばれた薩摩スチューデント19名を見ておこう。厳密に言うと、使節4名と留学生15名に大別される。使節の4名は、新納久脩(大目付、正使)、寺島宗則(船奉行、政治外交担当)、五代友厚(船奉行副役、産業貿易担当)、堀孝之(通弁、通訳担当)であり、町田久成は留学生であると同時に、督学という留学生全体を束ねるポジションに就いた。
留学生は、薩英戦争によって海軍力の圧倒的な差を痛感したことを契機に、元治元年6月に欧米列強に対抗できる軍事技術・諸科学および英蘭学の教育機関として設置された開成所から多数選出された。留学生は、特定の家柄や年齢からではなく幅広く選抜されており、思想的には敢えて攘夷思想が強い上級家臣を含んだ。
留学生15名の中には、駐英公使・初代文部大臣となる森有礼、駐仏公使・外務大輔となる鮫島尚信、駐米公使・農商務大輔となる吉田清成、駐蘭公使・元老院議官となる中村博愛、開拓権少書記官となり現在のサッポロビールの前身・開拓使札幌麦酒醸造所を設置した村橋久成などが含まれる。変わり種としては、最年少の13歳で薩摩スチューデントに加わり、アメリカに永住してワイン王となった長澤鼎がいる。個性豊かな薩摩スチューデントは、近代日本の建設に必要不可欠な人材となったのだ。