慶応元年(1865)閏5月、幕府は外国奉行柴田剛中を正使とする総勢10名の使節団をフランス・イギリスに派遣した。イギリスとの交渉の不調について、当時、薩摩スチューデントの寺島宗則がイギリス外務省と交渉中であり、彼が妨害工作をした可能性が指摘できる。