東京五輪のメインスタジアムとなる国立競技場(写真:ロイター/アフロ)

(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)

 オリンピックとは、もっと楽しいものだと思っていた。

 個人的な経験でいえば、2000年のシドニーオリンピックが開幕する直前の数日を、現地で過ごしたことがある。もう20年も過去のことだが、その5年前に東京で地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教が、核兵器を開発しようと企て、ウラン採掘を目的にオーストラリア西部の牧場を購入したことがあった。その現地取材の帰途が、たまたまその時期と重なった。

 シドニー市内は活気があった。もっとも、普段の街の様子を知らないから比べようもないのだけれど、それでも日中はトライアスロンの選手が市内の本番のコースでリハーサル練習をしていて、そこに道行く人の熱い視線が注がれていたし、夜になるとレストランはどこも盛況で、私のテーブルのすぐ隣では日本のテレビ局のカメラクルーが現地コーディネーターと日本語で盛り上がっていた。これから面白いことが起こることへの期待と確信で、みんな目を輝かせていた。このまま開幕までを過ごして帰りたい、とさえ思った。

国民の「我慢」「忍耐」の中で開催される東京五輪

 翻って、オリンピック開幕まで1カ月余りに迫った、いまの東京はどうだろうか。周知の通り、新型コロナウイルスの脅威に依然として曝され、緊急事態宣言が発出されている。「要請」によって飲食店は時短営業を余儀なくされ、酒類の提供すら禁止されている。聖火リレーも各地で中止が相次ぎ、まだ1カ月はあるとは言え、まったく盛り上がりに欠ける。面白くないどころか、我慢という現状に苦痛すら感じている。