上杉景勝の肖像画

(乃至 政彦:歴史家)

天正6年(1578)3月、上洛戦の準備を整えている最中に、急病に倒れるなり、そのまま帰らぬ人となった上杉謙信。もし謙信があと数年、健康であったなら、天下はどのような運命を迎えたであろうか。上杉謙信の関東遠征の真相を描きたちまち重版となった話題の書籍『謙信越山』の著者、歴史家の乃至政彦氏が、「御館の乱」に勝利した上杉景勝と菊姫を主軸に推測する。(JBpress)

もし謙信があと数年延命すれば

 天正5年(1577)9月、上杉謙信は手取川合戦で天下の織田軍を追払い、越後から越中・能登・加賀半国までの北陸制圧を果たし、「(織田信長は)案外手弱のようだ。この分なら天下までの道に不安もなかろう」と述べている。最晩年の謙信は、天下までの道、すなわち上洛を考えていたようである。

 しかし、謙信に残された時間は残りわずかだった。

 天正6年(1578)3月、上杉軍が上洛戦の準備を整えている最中に、急病に倒れるなり、そのまま帰らぬ人となったのだ。享年49であった。

 もし謙信があと数年、健康であったなら、天下はどのような運命を迎えたであろうか。今回はそれを想像してみたい。そのためにまずは、史実の上杉家を見てみよう。キーマンは、上杉景勝と菊姫である。

御館の乱と武田勝頼

 謙信が病没すると、養子の上杉景虎と上杉景勝は、跡目を巡って争いあった。「御館の乱」である。はじめ景虎は会津の蘆名家、実家である関東の北条家、ならびにその同盟国である甲斐の武田家らを味方につけ、景勝を孤立無援の窮地に追い込んだ。ここまで戦略は優秀で、まさに一級だった。だが、景勝はなりふり構わない動きで、軍事・調略・外交の逆境を覆していく。翌年3月、追い詰められた景虎は自害──。景勝の辛勝に終わったのだ。

 その勝因を2つほど上げるなら、北条からの援軍が越後に乱入するのを食い止めたことと、武田軍を味方に引き入れたことにあろう。

 景勝は、最前線の武将たちに的確な指示を飛ばして、北条軍の侵攻を食い止めた。さらに途方もない外交努力によって、敵となるはずの武田勝頼と「甲越同盟」を結んだ。尋常ならざる離れ業である。景勝の力量と武運は破格級だった。

 ところで勝頼は、景勝と交渉した際に、自らの妹を景勝の正室とする約束を結んでいる。親しい身内を相手に嫁がせるのはある意味、人質を差し出すのに等しい。これでは景勝優位の関係とすら言える。なぜこんな交渉ができたのか?

 そもそも勝頼は、同盟国の氏政の要請で、越後の景勝を攻め、景虎を救援するため越後介入に動いた。しかし同年6月、勝頼の先手を担う武田信豊の陣中に、景勝からの使者が訪れる。ここで和睦交渉が進められた。普通ならこんな使者は切り捨てられるはずだ。武田家に出陣を要請した北条氏政は、景勝の討滅を望んでいたからである。

 だが、信豊は使者を受け入れ、対話に応じた。一応その交渉は、「景虎・景勝」の「和親」を目的に進められた。同月下旬までに事態を聞いた勝頼は、信豊の判断を「勝手なことを!」と叱ったりせず、それどころか自ら景勝の家臣に返書を送り、交渉を順調に進ませた。景虎にも景勝と仲良くするよう使者を派遣したが、返事はなかった。そこで勝頼は景勝とだけ交渉することにして、8月19日、景勝に最終的な結論を記す起請文を書き送った。

 そこでは、景勝が景虎と和平を結ぶことを約束してくれたら、北条軍の越後侵攻を目的とする信濃入りを阻止することと、景勝と「縁段(談)」を進めることと、景勝を最優先に考えて関係を深めていくことが誓約されていた。

 ここで、景勝と勝頼の「甲越同盟」および菊姫の縁談が固められたのである。ただし、もし景勝が景虎に理由もなく攻撃すれば、どちらにも味方しないとも書いている。念入りの一文だが、これを見たら北条も激怒しかねないぐらい景勝に有利な誓いであった。

 特に、もし景勝が景虎との和睦を放棄して景虎を攻撃した場合、もちろん景勝に味方しないが、景虎にも味方せず、なおかつ北条が越後に入るため信濃へ進むのを食い止めるというのは、景勝支援と言って差し支えない態度である。