(乃至 政彦:歴史家)
上杉謙信の関東遠征の真相を描く話題の書籍『謙信越山』。著者である乃至政彦氏が、本書でも触れた川中島合戦をテーマとする歴史小説の世界をご案内。また小説から映画や大河ドラマなどの有名作品、さらに著名人と派生し、転換し続ける「上杉謙信像」にも迫る。(JBpress)
『謙信越山』から進みたい「川中島」小説
川中島は、謙信と武田信玄の合戦として、「鞭声粛々」「啄木鳥戦法」「車懸り」「龍虎一騎討ち」などの有名フレーズと共に、二大英雄の決戦として国民に親しまれてきた。
今回はその史実性を問うのではなく、わたしが特に印象深く思った川中島小説を紹介しよう。ただし同テーマの小説は多いので、上杉謙信が主人公側で、
◉伊東潤『吹けよ風 呼べよ嵐』
まず『吹けよ風 呼べよ嵐』(2016・祥伝社)から紹介しよう。同書は友人の伊東潤による作品で、時代考証を手伝わせてもらった。文庫版(2019・祥伝社文庫)では、巻末の解説も手がけた。今振り返ると解説らしくないテキストになって恐縮だが、川中島に対する独特の私見を披露させてもらっているので、拙著と併せてご一読願いたい。
さて、その内容だけれども、主人公は信玄や謙信でなく、上杉家臣となった信濃現地の武将・須田満親である。この人物の経歴はかなり面白い。はじめ満親は越後に近接する信濃北東の国人領主として、戦国時代にしては比較的気楽な身の上にあったが、武田軍の侵略に悩まされ、強者そのものの恐ろしさだけでなく、その圧力から生じる弱者の悲哀と醜悪さに直面する。
彼らはもう一方の別種の強者である越後の上杉謙信を頼り、信玄打倒を図るのだが、そこで信玄とは違う青々しい青年の姿を見る。若き謙信は繊細で、国人たちの身勝手さ、信玄の狡猾さに平然としていられない。たちまち感情的になり、やがて人間不信となってしまう。強者に思えた謙信もまた弱者であることが満親に見えてしまうのだ。
そこで満親は、謙信に依存するのではなく、その支えとなるべく奔走する。その先に、北方侵攻をやめない武田信玄との合戦、そして満親自身が背負う宿命の瞬間が待ち受けている。
伊東潤は、この作品が広く読まれれば、続編の構想もあると語っている。実は謙信の小説で、川中島以降を描くものはほとんどない。特に須田満親は、これまでの歴史小説であまり描かれない上杉と一向一揆の戦いに深く関与している。新たな視点の物語を見てみたいと思う方は、ぜひ本書を購読してもらいたい。
◉近衛龍春『川中島の敵を討て』
続いて、近衛龍春『川中島の敵を討て』(光文社文庫・2007)である。近衛氏は戦国上杉ものの小説を多数出されており、その取材力は抜群に豊かであるが、本書もまた例外ではなく、マニア以外知らないんじゃないかというようなマイナーな人物が登場したりする。
この作品が出た当時、取材に注力した歴史小説は、得てして年表的な時間の流れを描く無個性な作品が主流であった。だが、本書はそうではない。近衛氏の謙信に対するイメージがここで炸裂して、とても個性的になっているのだ。
普段は完璧超人のようなのに、
今は入手困難だが、謙信描写の可能性を切り開いたエポックメイキングな作品として、一度手にとってもらいたい。