ここで重要なのは、奥田と二階の関係である。1984年末に121人まで膨らんでいた最大派閥・田中派の中でいえば、二階は一新人に過ぎない。2人を結び付けたのは後の首相、竹下登らの派中派「創政会」との距離にあった。

 竹下は1985年2月、キングメーカーの角栄に反逆する形で創政会を旗揚げした。田崎史郎著『梶山静六 死に顔に笑みをたたえて』(講談社)によると、奥田は角栄側に近く、竹下らは奥田を“排除”の対象にしていたという。奥田自身も竹下らのクーデターに懐疑的で、田中派の分裂を食い止めようと仲裁している。二階も創政会には参加していない。創政会クーデターから経世会(竹下派)結成という大きな派閥内抗争の中で、奥田と二階は竹下らと距離を取っていたのだ。2人の立ち位置は近かったのである。前述のように角栄が1983年の衆院選、いわゆる「ロッキード判決選挙」で初当選した二階に目をかけていた事情もあった。

 話を戻す。エチオピア訪問を含めた旅程は16日間(トーゴの首都・ロメからエチオピアの首都アジス・アベバまでは約6000キロ)。当選1回生が地元を離れる期間としては長過ぎたが、二階は奥田の期待に応えた。後述するが、二階は奥田を通じ、対中人脈を築いていく。

選挙目前に欧州8カ国歴訪

 二階は外相、外務政務次官、党外交部会長など外交関連ポストの経験が全くない。にもかかわらず、外国訪問経験が豊富である。1990年1月8日から18日まで、首相の海部に同行する形で欧州8カ国(西ドイツ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリア、バチカン市国、ポーランド、ハンガリー)を歴訪したのもその一例だ。海部の背後にピタリとくっついて、西ベルリンではベルリンの壁のすぐ横を一緒に歩いたり、ポーランドでは民主化を成し遂げた「連帯」議長・ワレサとの会食に同席したりしている。

 興味深いのは、1990年1月24日に衆院解散を控えていた点だ。当選2回の二階もさすがに躊躇したことを後に明かしているが、最終的に同行を決断した。選挙に自信がなければ難しかっただろう。二階が保守党幹事長時代のホームページ(現在は閉鎖)には、奥田が地元の和歌山まで乗り込んできて「私は若い政治家に東西ドイツの合併や欧州の『連帯』の台頭等、百年に一回か二百年に一回の歴史の大転換期を肌で、勉強させようと考えている。『この際選挙のことは私たち後援会に任せて、総理に同行してヨーロッパへ行って来い』と言ってやってくれませんか!」と支持者らに伝えた逸話が記されている。