端島のグラウンドで、100メートルの直線を確保することはできない。もちろん、運動会も直線コースはほぼなく、走り出したらすぐにカーブ、直線かと思うとすぐにカーブに差し掛かる。徒競走はカーブに強くなる。生活の中でも、狭い空間で常に障害物に当たるので、反射神経は良くなっただろう。
島は本当にスポーツが盛んだった。閉山の2年ほど前に体育館ができたが、私は一度も使ったことがない。スポーツクラブは主にグラウンドを利用した。バスケットやバレーボールなど、60メートル四方の狭いグラウンドでひしめきながらやっていた。
テニスは病院の前にコートがあって恵まれていたが、バスケットやバレーボールは自分たちでコートを整備し、石などを取り除いてから練習を始めるのが日課だった。当時、サッカーは野球に次いで人気があるスポーツで、島でも盛んだったが、放課後の狭いグラウンドではできず、日曜日などの休みに楽しんだ。
正式なサッカークラブではない。誰かがボールを蹴り始めると、アパートの窓から見つけた人たちが下りてきて、人が増えるとチームに分かれて試合をする。そんな自然発生的なサッカーだった。ゴールポストはなかったから、鉄棒の隙間をゴールにした。キーパーがボールを捕球する時に勢い余って鉄棒の柱に頭をぶつけたこともたびたびあった。
年中行事だった台風の思い出
中学2年生の時だったと思う。台風何号だったかは定かでないが、騒ぎが起きたことがある。
普段、島の人たちが台風で騒ぐことはなく、年中行事の一つという感覚だった。島は台風で多くの被害を受けたが、それでひるむような人たちではなかった。私も岸壁で台風の大波を眺めるのが好きだった。呑み込まれそうな大波の寄せては返す様を楽しんだ。夜に家でじっとしていると、建物が揺れることがあったし、波しぶきが9階のベランダまで上がってくることもあった。
自宅で台風をやり過ごしていたが、退屈になったので51号棟の友達の家に遊びに行った。夜9時頃だっただろうか、それまで聞いたことがない大きな音がアパート中に響いた。皆がアパートの外に飛び出すと、見慣れたものが落下していた。端島神社の屋根だった。日給社宅(16~20号棟)と51号棟の間に吹き飛ばされてきたのである。
いつもは人通りが絶えない端島銀座と呼ばれた場所だが、台風で誰もいなかったことが幸いして犠牲者は出なかった。その数分後に風がぴたりと止んで、「台風の目」に入ったと近所の大人に教えられた。30数年経って本殿の屋根がなくなった今でも神殿の屋根はしっかり残っている。4本のコンクリートの足がこの神殿を支えているのは遠くからでもよくわかる。