現在の軍艦島(写真:HEMIS/アフロ)

※1回目「石炭を掘るためだけに存在した軍艦島が語る未来」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64178)

※3回目「『地獄の島』の汚名を着せられようとしている軍艦島」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64576)

 軍艦島で最後に私が住んでいたのは、65号棟最上階の9階だった。正式名称は「報国寮」で、昭和33(1958)年に10階建の新65号が建設されるまではL字型で、屋上には端島幼稚園と保育園があった。島一番のマンモス棟で、昭和40年代には約340世帯が暮らしていた。その後、コの字型となった建物の下には公園があり、一日中、子供たちの声が聞こえる賑やかな場所だった。

 65号棟は各部屋のベランダが向き合う構造で、9階の部屋のベランダから各世帯のベランダが見え、夜になって電灯が灯った各部屋の生活が手に取るように見えた。潮風が吹いていない日のベランダはファッションショーのように色とりどりの洗濯物が下がっていた。厚手のカーテンを引くことはなく、互いの生活が見えていたが、誰も隠そうとはしなかった。あえて覗くようなことはしないし、プライバシーを気にすることもなかった。

 父はこの張り出しのベランダに畳を一枚敷いて、私の部屋を造ってくれた。島の平均的な家族構成は親子5人で、多いところは8人。六畳と四畳半と台所程度の狭い空間に小部屋や小屋を造って効率よく暮らしていた。今も船からその名残が垣間見える。

 水洗トイレはなく、モノが下へと落ちていく落とし便所だった。ゴミも各階に設けられたダストシュートから落としていた。効率的に建物の機能性を追求した設備だったのだろう。下に集まったゴミはリヤカーで焼却炉に運ばれた。ゴミの分別が厳しくない時代で、ゴミを捨てる苦労はなかったようだ。以前はゴミを海に捨てていたようだが、衛生面から中止された。

 私が65号棟に移る前に住んでいた16号棟や17号棟など、日給アパート(注)のトイレは、部屋にはなく共同だった。昼でも裸電球を点けなければならない暗さで、夜にトイレに行く時には、少なからぬ恐怖感を抱いたことを思い出す。部屋を移る時には、できるだけトイレに近い部屋になればいいと願った。

注: かつて日給制を取っていた名残で、日給制で働く鉱員が住むアパートは日給アパートと呼ばれた

 昭和41(1966)年頃まで、炭鉱の鉱員や職員の勤務状況、家族の人数などの点数制によるランク付けで引っ越し先のアパートを配分されたが、私たちが過ごした時代は部屋さえ空けば比較的簡単に引っ越しできたようだ。8年の間に3回引っ越し、65号棟で閉山を迎えたが、トイレ付きの部屋に住むことはなかった。