※2回目「今も色鮮やかによみがえる軍艦島での日常生活」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64267)
※3回目「『地獄の島』の汚名を着せられようとしている軍艦島」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64576)
「軍艦島」は長崎県長崎市高島町にある「端島」の俗称だ。東経129度45分、北緯32度39分に位置し、野母半島の北西、長崎港から約18キロの海上にある。島の南北約480メートル、東西約160メートル、周囲約1.2キロメートルの小島で最も高いところは海抜47.7メートルである。
その端島で1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行った後、1890年(明治23年)、三菱が島全体と鉱区の権利を買い取って、本格的な海底炭鉱として操業を開始した。島直下と周辺の海底から良質の強粘結炭を採掘し、主に八幡製鉄所に製鉄用原料炭を供給して国家の手厚い保護を受けてきた。しかし、国のエネルギー転換政策の推進に伴って1974年1月15日に閉山し、同年4月20日をもってすべての島民が島を去り、無人島となった。
明治期には島中央の岩盤に3~4階建ての木造住宅が建てられた。東部平坦地には作業場、西部平坦地には住宅と公共施設、また7階建の小中学校や映画館、料理屋、娯楽場、病院などが建ち並び、最盛期には5200人が暮らしていた。人口密度が東京の9倍とも言われた島の炭鉱が閉鎖された時の人口は2200人だった。
閉山から41年後の2015年7月5日、軍艦島(端島)を含む近代化遺産が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に登録された。
ユネスコに登録された「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は福岡県・北九州市、大牟田市、中間市、佐賀県・佐賀市、長崎県・長崎市、熊本県・荒尾市・宇城市、鹿児島県・鹿児島市、山口県・萩市、岩手県・釜石市、静岡県・伊豆の国市の11市、23資産で構成されている。
産業遺産は国際産業遺産保存委員会(TICCIH)が2003年に採択したニジニータギル憲章で、「歴史的・技術的・社会的・建築学的、あるいは科学的価値のある産業文化の遺物からなる」と定義した。その定義に合うような産業遺産を私たちは、どれだけ知っているのだろうか。近年、産業遺産という言葉が使われ始めるまで、多くの人々にとって「廃墟」に過ぎなかった。
廃家、工場跡、鉱山跡、病院、ホテルなど数え上げれば切りがないが、かつてはそこで産業を育んできた場所や物はいつのまにか忘れ去られ、今となっては何の役目も果たさない。そう言ってしまえば何の価値も見出せないように思える。
常に新しさや未来を求めていく時代には、消えていった場所や残っていても過去の痕跡を残さないものに価値を見出すことなど考えもしなかっただろう。しかし今、そういった産業遺産を見直す動きが出てきている。
「軍艦島」はその象徴でもある。