先生と過ごした濃密な時間

 学校の昼休みといえば給食だが、島では昭和45(1970)年まで給食はなかった。3時限目が終わると牛乳が配られ、それを飲んで昼休みまでの1時間、授業を受けた。

 昼食は弁当を持参するか、自宅に帰って食べるかだ。自宅アパートまでの距離は知れている。家まで走って母親が作った昼ご飯を頬ばると、そそくさと学校に戻った。決められた時間で食べる昼食は簡単で、当時は弁当持参の子が少しうらやましいと感じたこともある。

 食事を終えた小学生、中学生は、昼休みを楽しんだ。狭いグラウンドにひしめきあって遊ぶ者、教室で読書をする者、学校の廊下で走りまわる者、それぞれが短い昼休みを楽しんだ。

 私の中学校時代、校舎の6階の端に防音装置が施された音楽室があり、海を眺めながら歌っていたが、音楽の授業は昼休み後が多く、先生のピアノの音が子守唄になったことも少なくない。

 小中学校の先生は、ほとんどが島に常駐して、島の生活に溶け込んでいた。独身の先生は寮に住み、家庭がある中学校の先生は「ちどり荘」に、小学校の先生は公営住宅の13号棟に住んでいた。

 独身の先生たちの宿舎は上風呂に近い6号棟で、夜になるとよく遊びに行っていた。学校の問題や進学、友達関係など、いろいろな相談に乗ってもらった。島に住む先生と生徒は、かなり親密だったと思う。

 先生と生徒の間に垣根はなかった。困った時には、先生に相談に行くのが常で、こちらから押しかけて相談に乗ってもらう感覚だった。今も健在な先生たちは同窓会で引っ張りだこだ。こういう先生にめぐり逢えた大きな要因は島特有の環境だろう。

 最近の教育現場で見られるさまざまな問題は、島では考えられない。叱る時は徹底的に叱り、誉める時はわが身のように喜んでくれた。親が先生を責めることはなく、間違った本人たちをたしなめた。先生はまた、悩みがありそうな生徒には進んで声をかけ、放課後や夜に自分の宿舎で話を聞いた。就職や進学は、先生とじっくり話してから最後に親と相談する。それほどまでに先生を信頼した。親しみを込めてあだ名で呼んだ先生もいた。