「不夜城」と呼ばれた軍艦島の夜

 不夜城と呼ぶのがふさわしいほど、夜の島から明かりが消えることはなかった。炭鉱は24時間操業で、休むことなく働き続ける。働く人と送り出す家の明かりが常にあった。裸電球は、派手さはないが温もりがある。

 一番方(注)の酒席が最高潮に達する頃、二番方が帰ってきた家が明るくなる。三番方を送り出す家に明かりが灯る頃、一番方は眠りに入る。二番方の灯が消える頃、一番方を送り出す家に明かりが灯る。島の明かりは絶え間ない。

注: 炭鉱は三交代制で、一番方は朝から夕方まで、二番方は昼から夜まで、三番方は深夜から朝方までの勤務だった

 一つひとつの明かりに家庭があり、家族がいた。島から出かけて夜に帰ると、島のあちらこちらから漏れる明かりに安堵感を覚えたし、船が桟橋に近づくにつれて、人々の声が漏れ聞こえてくる気がした。

 私たち子供もかなり遅くまで友達の家で遊んでいたし、夜中に帰っても叱られることはほとんどなかった。鍵をかけることはなく、入り口を叩いて寝ている家族を起こす必要もなかった。行き先を言えば、親は安心していたのだろう。狭い島で、探すほどでもないと考えていたかもしれない。

 友達の家族も帰れと言うことはなく、子供たちの自主性に任せていた。テレビゲームがない時代、もっぱらレコードを聞いたり、それに合わせて歌ったり、屋上に出て取りとめのない話をしたり。ただ父親の勤務状態には気をつけて、今日は早めに帰ろうとか、静かに遊ぼうとか、子供なりに暗黙の了解があった。

 いろいろな意味で、公共機関として活用されたのは公民館と映画館だったと思う。映画館は本来の機能に加えて、山神祭の後のカラオケ大会や余興の場になるなど集会場の役割を果した。公民館も同じく文化施設として使われた。生け花教室や料理教室、カルタ教室、ボーイスカウトや老人会の集会、また選挙の際には投票場として使われた。

 長崎県立高島高校に通学する船が欠航になると、自習教室になった。1階に事務所、2階に料理教室などがあったように思う。3階は畳の部屋で防音設備もあり、多くの集会に利用された。

 私はもっぱらボーイスカウトの集会で利用した。西彼五団の端島ボーイスカウト「はと班」の班長として、7名くらいの隊員の世話をした。手旗信号やモールス信号の練習など、「備えよ常に」を合言葉に活動していた。今でも手旗信号を打てるし、いろんなロープの結び方ができる。ここで学んだことは社会に出てから役立つものがあったと思う。

 島は石炭を採掘した人々だけではなく、人が生きる原点を語ろうとしていたのかもしれない。

 以下、軍艦島の写真をお楽しみください。