秦の始皇帝の「後宮」には宮女3000人がいたとされ、宦官がそれらの世話係として任命されていた。

 後宮は宮城の奥に接した建物で、后妃やその他の宮女たちが住まう男子禁制の特別な邸であった。

 徳川幕府の江戸大奥もこれと同じ後宮である。

 江戸時代には権現様(徳川家康の神号:東照大権現)や幕府の御政道については大名、庶民ともに一切とやかく言ったり、書物に書いて発行したりすることは許されなかった。

 そのため江戸城大奥のことが書かれている書物は明治維新(1868年)から終戦(1945年)までほとんど存在せず、もしあったとしても、それは制度、官職、城内の模様などで、大奥がどのような制度で、その中で何が行われていたのかについては公にはされることはなかった。

 江戸城大奥は江戸城本丸の一部7000坪の屋敷、部屋数では200室。いわば将軍の私邸であり御台所(みだいどころ)の住居。そしてこの中で暮らしている御殿女中総数およそ3000、男子禁制の女護が島ともいうべきものだった。

 大名邸にも表と奥の区別はあったが「大奥」といえば将軍の場合に限る。

 将軍の正室は「御台所」と称し、また「御台様(みだいさま)」「北の方」「御簾子(ごれんちゅう)」「御前様」などの呼称もある。

 他女中には上臈(じょうろう)、御年寄(おとしより)、御客会釈(おきゃくあしらい)、中年寄(ちゅうどしより)、御中臈(おちゅうろう)、御小姓(おこしょう)・御錠口(おじょうぐち)、御伽坊主(おとぎぼうず)、御仲居(おなかい)、御末(おはした)など多くの女性がさまざまな役職を勤めていた。

 御中臈(おちゅうろう)は、御台様(みだいさま)以外に将軍の寝所を勤めるという任務があり、また、御中臈でない女性が将軍の御目にとまり「あれなる者は名を何と申すか」とのお声がかりがあると、それは今夜の伽(とぎ:相手)をさせたいとの意向をあらわし、かくして御用を命ぜられれば、直ちに中臈に取り立てられた。