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(文+写真:船尾 修/写真家)
1931年(昭和6年)に満洲事変を引き起こした関東軍は当初、その勢いのまま満洲全土を占領する腹積もりであった。この計画の中心的人物は作戦主任参謀であった石原莞爾中佐らである。石原の持論は、満蒙領有によって外地に資源と生産力を獲得し、疲弊している日本国内の経済を立て直したいというものであった。
当時の時代背景を見てみると、アメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌が1929年(昭和4年)に起き、その影響が世界各国に波及していた。もちろん日本経済も大打撃を受けていた。そうした経済的危機にある日本を救うためには満洲の土地が是が非でも必要だという考え方である。アメリカとの「世界最終戦争」は将来的に避けることができないという持論を持っていた石原にとってみれば、広大な土地を手に入れることによって食糧と資源を確保し、国力を蓄えることのできる場所が満洲だったのだろう。
親日的な政治家を巻き込んで満洲国建国
事変の翌日、日本政府は急遽、閣議を開いた。その結果、関東軍の謀略の可能性が高いことから、「不拡大方針」が閣議決定される。いくら満洲が政治的に不安定な土地であるとはいえ、やはり他国の領土を武力で占領するという行為は国際社会が許すはずがない。しかしこの閣議決定においては関東軍の撤兵についてはまったく触れられておらず、実際には現状維持のまま南京国民政府と海外列強の出方を窺うだけの「様子見」を意味した。
関東軍は武力による満蒙領土化が難しいオペレーションであることから、この地域に日本の息がかかった新政権を樹立する方針に転換した。新政権という名の傀儡政権を樹立してしまえば、日本の領土拡張に警戒感を抱く欧米諸国による非難をかわすことができるうえ、不拡大方針を決定した日本政府の立場も守られる。
ところが事態は一気に混迷の色を強めることになる。満洲事変により奉天を脱出した張学良が新たに拠点をもうけた錦州を、関東軍が爆撃したのである。この時点ですでに政府や陸軍中央は関東軍を制御することができなくなっていた。日本政府にとっては青天の霹靂だったに違いない。当然のことながら、国際連盟に提訴した中華民国政府や欧米から強い批判を受け、その対応に苦慮することになった。満洲事変後の混乱をうまく乗り越えることができなかった当時の若槻礼次郎内閣は、結果として内閣総辞職に追い込まれてしまうのである。
代わって成立したのが満蒙問題の武力解決に積極的な犬養毅内閣である。関東軍はこれを好機と見て、チチハル、ハルビンとこれまで日本の兵力が及んでいなかった北部満洲の拠点を次々と攻略していった。1932年(昭和7年)2月には東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)の満洲ほぼ全土を占領下に置くことになった。
関東軍が抜け目のないのは、彼らがけっして武力だけに頼った乱暴な組織ではなかったという点だろう。満洲全土に進軍しつつも、新国家樹立という目標に向けて親日的な有力政治家を次々とリクルートしていた。黒竜江省長の張景恵(ちょうけいけい)、後に省長を引き継ぐ馬占山(ばせんざん)、吉林省長の熙洽(きこう)、奉天省長の臧式毅(ぞうしきき)の4名がその関東軍の構想に乗る形で東北最高行政委員会を組織し、3月1日には委員会によってついに満洲国建国宣言が出されたのである。
元号を大同とし、首都は長春に置くことが決められ名前を「新京」に改めた。満洲国のトップである国務院総理(首相)には北京の紫禁城時代の忠臣であった鄭孝胥(ていこうしょ)が就任することになった。
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