溥儀擁立で「正当な政権」をアピール
満洲国建国の最大のハイライトは、清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の擁立だろう。1906年(明治39年)生まれの溥儀は3歳のときに清朝第12代皇帝として即位し、宣統帝を名乗っていた。ところが1911年(明治44年)に起きた辛亥革命によって清朝が滅ぼされたため北京の紫禁城に事実上軟禁されていたが、その後に日本が身柄を引き取ることになり天津にあった日本租界で暮らしていたのである。
清朝の復辟を夢見る溥儀にとって、関東軍からの満洲国皇帝への誘いはさぞ魅力的なものだっただろう。溥儀を帝位につけることにより、満洲国が日本の傀儡政権ではなく清朝の血統を継いだ正当な政権であることを内外にアピールすることができ、中国や海外列強の疑念を払しょくすることができる。つまり日本側にとっても溥儀にとっても悪くない取引だったといえる。
ただ、溥儀のポジションは当初、なんの権力もない執政という位置づけだった。これは関東軍が、満洲国が民本主義をとる共和制を採用していることを内外に示すためだったといわれている。満洲国が溥儀を皇帝の地位につけて帝政に移行するのは2年後の1934年(昭和9年)のことであった。溥儀のその後については、本連載の次の機会に譲るつもりである。
もしも国際連盟の提言を受け入れていたら
私が満洲国のことを調べようと考えたきっかけは、以前にフィリピン残留日本人について取材・撮影を進めていたときに、日本が戦前から戦中にかけてどうして泥沼のような事態に陥ってしまったのかその歴史的背景を知りたいと思ったからである。戦争というものがどのような過程を経て起きるものなのか、政治や軍隊のシステムにもし欠陥があるとすればそれはどういう点なのかに私は興味があった。太平洋戦争に至った経緯を遡っていったら、満洲国の建国について触れないわけにはいかないことがわかってきたのである。
中世の時代ならいざ知らず、近代では世界中どこを探しても地理的空白部など存在しない。だから革命などにより前政権が崩壊して新たな秩序の下で異なる価値観を持つ新国家が誕生するか、植民地から独立するか、あるいは分離独立という形で元の国家と袂を分かつというパターンでしか、新しい国家が樹立できる余地はない。
満洲国の建国というのは強いて言えば南京国民政府からの分離独立という形になるのだろうが、それが民族自決によるものではなく他国である日本が構想し実行したという点で、それが正しいとか間違っているとかは横に置いてかなり特殊でデリケートなケースだったのだと思う。
その一例として、皆さんもよくご存知であろうリットン調査団と満洲国建国について言及してみたい。事の発端は、満洲の地に関東軍が展開したまま、居留民の保護を理由に撤退しなかったことに遡る。そのころ中国大陸では北京の中華民国と南京に拠点を置く国民政府が勢力圏を争い、そこに共産党や地方の軍閥が割拠して権力が統一されていない状態だったことは前回の連載(「戦後75年・蘇る満洲国(3)瀋陽で出会った『東京駅』」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61654)で述べたとおりだ。
中華民国は日本と同様に国際連盟に加盟していたが、居座り続ける関東軍の存在に業を煮やし連盟に訴えた。そこで協議が行われた結果、日本はいったん関東軍を撤退させることに同意する。ところがすでにそのころには、日本政府に関東軍をコントロールする力は残されていなかった。関東軍は撤退するどころか、自分たちの信念を貫いて錦州やチチハルへの派兵を進めたのである。
リットン卿を団長とする日支紛争調査委員会がそのため満洲の実地調査をすることになった。満洲国の建国宣言が出されたのは、調査団が満洲へ赴く直前のことである。おそらく関東軍としては、占領政策を分離独立にすり替えるためにその既成事実化を狙ってのことだったと想像できる。
調査団による報告書が出されたのは建国の年の10月。その内容をかいつまんで説明すると、関東軍の駐留はけっして日本人居留民の自衛のためではないこと、満洲国建国はその地に暮らす現地の人たちによる自発的なものではないことを明らかにしたもので、訴えた中華民国側の主張を大筋で認めるものだった。
しかし、同時に、満洲に日本がこれまで築き上げてきた権益や居住権などは認めるべきであり、日本が満洲の近代化に果たす役割は大きいとし、日本の特殊権益を大幅に擁護する内容でもあったのである。当時、日本はイギリス、フランス、イタリアと並ぶ4つの国際連盟常任理事国のひとつであったことから、連盟も日本の立場にかなり譲歩した結果の結論だったのだろう。