戦後75年・蘇る満洲国(4)新京、満洲国の首都を歩く 【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて 2020.8.25(火) 船尾 修 フォロー フォロー中 中国 シェア0 Tweet この写真の記事へ戻る 長春の街はだだっ広いが、碁盤の目のように規則正しく区画されている個所が多いので、地図を携帯すればさほど迷うことはないと思う。市内を巡回する市バスには番号が表示されており、また停留所の案内板には漢字表記でバス停の名前が記されているので、漢字が読める日本人にはとても利用しやすい。私は康徳8年発行の「最新地番入り新京市街地図」を入手して現在の長春の地図と比較しながら、満洲国期に建設された建築物を探して歩いた。「康徳」は満洲国が帝政に移行した1934年(昭和9年)を元年とする元号で、康徳8年は1941年(昭和16年)。写真は取材の途中に偶然見つけたマンホールの蓋。「新京」という文字がはっきり刻まれている。「下」は下水を意味する。 拡大画像表示 満洲国の首都が置かれた新京(現在は「長春」)の位置(Googleマップ) 拡大画像表示 1936年(昭和11年)に竣工した国務院庁舎は満洲国の最高行政機関であり国会議事堂をイメージして建てられたと言われている。満洲国における官衞建築の代表作とされる。官庁の建築というのはいわばその都市の顔であり、国家としての品格や権威、政治的思想などを表わすものであるから、これら官衞建築の設計に挑んだ日本人設計士は並々ならぬ情熱を傾けたことは想像に難くない。国務院庁舎は現在、吉林大学基礎医学院の校舎として使われている。 拡大画像表示 満洲国軍事部(当初は治安部の建物として使用された)は国防、用兵、軍政などを司った。1943年(昭和18年)に改編される以前は治安部で、主に警察業務全般を担当した。その用途のためだろうか、他の官庁に比べると特に建物の正面から受ける威圧感はすさまじく、拒絶感さえ漂う。おそらく当時、よほど用事がなければ中へ入ろうという気は起きなかっただろうと想像する。現在は、吉林大学白求恩医学部付属第一臨床医学院という名の病院として使用されている。私も建物の中へ入ってみたが、日本と同じような入院するための部屋が並んでいた。国務院と道路を挟んで反対側にある。 拡大画像表示 満洲国総合法衛には最高検察庁や最高裁判所が入っていた。巨大な円筒の上に中国風の屋根が載っているというかなり特徴のある外観をしており、これを独特で美しいとするか醜悪と見るかは人によって評価が分かれるだろう。現在は中国人民解放軍第461医院として使用されており、軍の施設であるため最初は門から中へ入るのがためらわれたが特に警備が厳しいわけではなかった。背後に見えるのは南湖公園内の湖で、満洲国時代には黄龍公園として国都建設局が川を堰き止めてつくったもの。 拡大画像表示 屋根にまるで日本の城の天守閣を戴いたような和洋折衷のこの建築物は1934年(昭和9年)に完成した関東軍司令部。関東軍司令部は当初、旅順に置かれていたが、満洲事変の勃発を受けて奉天に移った。さらに満洲国が建国された後は首都・新京に再度移転したのである。関東軍司令官はその強大な軍事力を背景に駐満洲国大使も兼ねるなど満洲国におけるほぼ全権を掌握していた。現在この地域で権力を握る中国共産党吉林省委員会がこの建物に入居しているのはけっして偶然ではないのである。ちなみにこの建物の入り口には人民解放軍の兵士が何人か歩哨として立っており、撮影しようとカメラを向けると大声で威嚇されるので注意されたい。 拡大画像表示 関東軍司令長官邸は関東軍司令部から歩いて行ける距離にあり、現在は松苑賓館として使用されている。中へ入るとここは王宮かと見まがうような丸みを帯びた美しいデザインの階段に目を奪われる。日本で起きた大正デモクラシーの影響を受け、満洲国も主権は天皇に存在しながらもかぎりなく民衆の意思を政治に反映していこうとする民本主義を目指した。この定義で行くと、天皇の直属の軍隊という位置づけの関東軍は、満洲国においては「主権である天皇の代理」として振舞うことが許されることになる。関東軍にほぼすべての権限が集中したのはおそらくそういう論理に支えられていたためだろう。 拡大画像表示 1935年(昭和10年)に竣工された満洲国交通部は、鉄道、郵政、電信、電話、航空、水運などに関する行政を担った。4階建ての建築は竣工から85年たった現在もその存在感は色褪せることなく長春で異彩を放っている。典型的な興亜様式の建築で、建物正面の独創的なデザインを実際にまのあたりにするとその奇抜さにびっくりする。日本人が設計したとはとても思えず、建物だけを見たらいったいどの国の建築かと首をひねるだろう。しかしその「どの国の建築かわからない」という感想こそが、実は満洲国という急造国家には最もふさわしいのではないかとさえ思う。現在は吉林大学再生医科学研究所などが入っている。 拡大画像表示 長春の巨大な人民広場はかつて大同広場と呼ばれていたが、そこに面して建つのが満洲中央銀行本店。1938年(昭和13年)の竣工で、設計は日本国内で数多くの旧第一銀行支店や証券会社などのビルの建築に携わった西村好時。施工は大林組。満洲中央銀行は満洲国における経済政策に関連するほか通貨の発行も手掛けていた。現在は中国人民銀行長春支行として使用されている。この建築物のデザインの圧巻は正面の10本の円柱。古代ギリシャ建築などで使用されたような巨大な円柱を花崗岩を積み上げることによりつくった。現在の日本ではとうていこのようなスケールの大きな建築物を手掛けることはできないだろう。 拡大画像表示 1935年(昭和10年)に竣工された地上6階建ての堂々たる威風を感じさせる満洲国司法部。現在の日本でいえば法務省にあたる。正面中央部分はまるで塔のように見えるデザインである。それにしても不思議なフォルムで、見ようによってはいろいろなパーツを組み合わせたとも取ることができる。満洲国の理念のひとつに「五族協和」がある。五族とは、満洲人、朝鮮人、漢人、蒙古人、そして日本人である。それら民族が結集して新しい国をつくることをイメージして設計されたのだろうか。現在は吉林大学新民教区として使用されている。 拡大画像表示 満洲国と関東州における電気通信事業を独占的に経営するために、1933年(昭和8年)日本と満洲国の間で合弁の国策会社である満洲電信電話株式会社が設立され、本社は首都・新京に置かれた。略して満洲電電、あるいはMTTと呼ばれた。電気通信事業だけではなく放送局も運営。元NHK アナウンサーで俳優としても活躍した森繁久彌は1939年(昭和14年)にNHKに入社、すぐに満洲国勤務を命じられここ新京に赴任した。1945年(昭和20年)にソ連の侵攻により捕らえられたが、翌年帰国することができた。この建物は現在、中国聯合通信有限公司(China Unicom)の長春支社として使用されている。 拡大画像表示