期待に反して経営能力が乏しかった国立大学

 国立大学の法人化を主張してきた私にも、大きな誤算があった。期待に反して、国立大学の経営能力が乏しかったことである。大学は、たしかに民間企業と異なり、利益という客観的目標は存在せず、組織の運営も、社長の決断で決まるという仕組みではない。だからといって組織改革を断行し、新しい研究分野を伸ばさなくてもよい、ということにはならないはずだ。

 大学を取り巻く環境の変化が激しいこの時代に、どうして大学でスクラップ・アンド・ビルドも含めた改革が進まないのか。原因は大学という組織のガバナンスのあり方にある。

 大学は、研究者の自治によって運営されるべき組織であり、国による規制は学問の発展の力を殺ぐ。それゆえに、大学のトップを大学を構成する教職員の選挙で選出する仕組みが、構成員の支持を得て大学の円滑な運営を行うためには必要だ、とされてきた。

 しかし、こうした見解に対する反論もある。投票によって選出されたトップが、財政状況が悪化したときに非効率部門をスクラップするような経営判断ができるのだろうか。非効率部門を温存したまま財政難に陥ったとき、しばしば採られる政策は「一律削減」である。これでは研究意欲をもった部門の活力も殺ぐことになりかねないというのである。

 このため、法人化に際しては、大学トップである学長の選出は、外部の人材も加えた学長選考会議に委ねる仕組みが採用された。ただ、新設大学はともかく、伝統ある国立大学では教員の信任なきトップがリーダーシップを発揮することは難しい。その結果、多くの国立大学で、従来と同様の構成員による意向投票の制度が維持されたが、従来の慣習から脱却できないがゆえに、思い切った改革ができず、ジリ貧状態に陥りつつあるといえるのではないか。

 その結果、運営費交付金の削減はおかしい、法人化は間違いだったという主張になっているように思われる。しかし、現状の経営体制のまま、運営費交付金の増額を求める主張は納税者に対して説得力を欠くといわざるをえないだろう。