「自由」を取るか、「カネ」を取るかの選択

 要するに、大学が「自由」と「カネ」を希望しても両方得るのはムリである。そのときの情勢からしてカネを増やすことは期待できない以上、自由を選択するのは合理的な選択であった。あとは、その自由を生かして、いかに大学の成長と繁栄を図るか。それは、それぞれの大学の経営能力に委ねられたのである。

 さらに、国立大学をこうした環境に置くことは、大学間の競争を促し、それが研究教育の創意工夫と結びつき、全体としての研究教育の質の向上をもたらす。一連の改革によって、大学が有する資源の効果的な活用にもつながるということも考慮されていた。

 すなわち、上手に経営を行うことができる大学は限られた資金であっても有効に使い、さらなる資金を獲得して研究も教育も発展させることができるであろう。他方、経営能力に欠ける大学は衰退し、将来的には統廃合の対象となるかもしれない。

 その中間にある多数の大学は、まさに経営手腕が問われたところである。新規分野への投資の原資を作り出すためには、競争的資金や外部資金の導入が必要であるが、それでも不足するときは、業務の効率化を図って資金を捻出しなければならない。スクラップ・アンド・ビルドを上手に行って成長力を作り出すことが期待された。

 この議論の最中にはさまざまな異論が出された。大学は民間企業とは異なる、すぐに研究成果が出るとは限らない、外部資金の導入に結びつかない研究分野も多い、さらに国立大学にも大小いろいろあり、すべて同一に扱うのはおかしいという主張も聞かれた。

ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥氏。ノーベル賞受賞者を輩出する日本だが、現場での研究を支える環境は悪化している(写真:AP/アフロ)

 たしかに、それも一理ある。だが、それではかつての古きよき時代のように、国に十分な予算を付けろというのか、財政難に加えて、18歳人口の減少が見込まれるときに、そのような要求は納税者を説得できない、という反論が出された。

 法人化から15年以上経過し、今や国立大学は財政難で研究は進まず、研究の担い手たる若き研究者のポストも作れず、人材流出がわが国の研究における国際的地位を低下させているという。ノーベル賞受賞者を含め、国が研究投資を増やさないとわが国の研究の水準は次第に低下していくという警告も発せられている。