そして、『この「超」がつくほどマイナーな人物を取り上げる理由』として、
『松平忠固ほど日本史上重要な業績を残しながら、彼くらいまったくといってよいほど評価されていない人物も珍しいからである』
と断じ、本を手に取った私たちに、まるで「挑戦状」のような一言を突き付けるのです。
『この人物を今後も無視し続けて良いのか否か、読者の判断を仰ぎたい』
36歳で老中に抜擢
松平忠固は1812(文化9)年、姫路藩主の十男として、江戸の藩邸で生まれました。
1829年(文政12)年、17歳のとき上田藩(現在の長野県上田市)の藩主・松平忠学の養女と結婚。婿養子となって、翌年、第6代藩主として家督を継ぎます。
弱冠18歳で上田城の城主となったのですから、当時の若者はすごいですね。
忠固が「老中」(江戸幕府の最高職=現代の首相と同じ)に抜擢されたのは1848年、36歳のときでした。
その5年後、ペリー率いる艦隊が浦賀に来航。国内情勢が「鎖国か、それとも開国か・・・」で大揺れに揺れる中、松平忠固は徹底して開国を主張します。
結果的に幕府は、一部大名の反対を押し切るかたちで1854年に日米和親条約を、そして4年後、日米修好通商条約を結びます。
実はこのとき、開国を迫る異国との交渉の最前線に立って二つの条約を調印した人物こそが、老中・松平忠固だったのです。