しかし、松平忠固は日米修好通商条約に調印した翌年の1859年9月12日、48歳という若さで突然亡くなります。

 表向きは「病死」とされているものの、その説を疑う人は多いようで、著者の関氏もこう綴っています。

『忠固の突然死には、あまりに不審な点が多いからだ。筆者も病死説を信じることはできない』

 上田市立博物館には、忠固の「遺言状」が今も残されています。本書の中には、その写真も掲載されていますが、9月4日としたためられたその日付にも、疑問が呈されています。

薩摩の志士に殺された上田藩士

 さて、本連載の主人公「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、松平忠固の死去から4カ月後、「万延元年遣米使節」の随員としてアメリカへと出発します。

 その目的はまさに、忠固が調印した「日米修好通商条約」の批准書をワシントンでブキャナン大統領と交換することでした。

 丁髷に羽織袴姿の使節団は、アメリカの軍艦「ポーハタン号」に乗り込んで太平洋を渡り、パナマ地峡を蒸気機関車で横断します。そして、アメリカ大陸の東側に移動後は、いくつかの船に乗り換えて、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを巡りました。その様子は、佐野鼎や他の使節たちの『訪米日記』をもとに、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)にまとめたとおりです。

赤松小三郎のパネル(筆者撮影)

『開成をつくった男』の冒頭に、佐野鼎と同年代の友人・赤松小三郎(1831~1867年)という人物の名が登場する場面があります。佐野と赤松は互いに、江戸の「下曽根塾」や長崎の海軍伝習所で西洋式兵法や蘭学を学んでいました。

 上田藩士だった赤松という男は大変優秀で、日本で初めて「普通選挙による議会政治」を唱えた人物でもあります。実は彼の主君こそが信州上田城主であり、幕府の老中でもあった、この松平忠固だったのです。

 佐野鼎はきっと、友人の赤松小三郎から松平忠固の先進的な考えや辣腕ぶりについて聞いていたのではないかと思います。

 ちなみに赤松小三郎は、彼の先進性に恐れをなした薩摩の志士(西郷隆盛や大久保利通ら)によって暗殺されたと言われています。

 関良基氏がすでに『赤松小三郎ともう一つの明治維新』という本を上梓しておられますので、こちらもぜひ読んでみてください。