結局、3人とも、どんな相手でも嫌がるような、サッカーをしていれば必ず再現される状況を理解して立ち位置を取っていた、ということになるんです。
ぼんやりと見ている中にある「光」?
また、一見真逆に見える野沢と柴崎ですが、似たような言葉で表現していた“感覚”もあります。
ボールを持ったときの「判断」の部分です。
野沢は「いや、そこが空いていたから」、柴崎は「判断は一つ。一つがどんどん切り替わっていく感じ」。
これ、言語化したものは違いますが、想像すると見ている景色は同じなのではないかと思います。
つまり、ぼんやりと全体を見ている景色の中で、一つだけ空いているところがある。そこを相手がケアすれば、またケアして動いた場所が空く。その繰り返し。つまり、「試合での状況・相手」が「判断」を選ばせてくれるという感覚なのでしょう。
見ること、状況を把握すること、そして、その状況に対して的確に判断していくこと。その“判断の精度”を追求することは、プレーする選手たちが選手でいる限り、ずっと挑んでいかなくてはならないサッカーの本質の一つです。
さて、そのための「原則」とは。「立ち位置」とは。「判断基準」とは。
指導者として、それらを明確にし、整理しておくことがやはり大切であること。そして、彼らが三者三様であるように、選手は皆違うので、その選手に合わせて言葉を選び、接し方を選んであげることの大切さを再認識しました。
サッカー界全体を見れば、彼らの様な選手は一握りで、“感覚”でプレーを選ばせる段階に進むまでに必要な言語化もあるのだと思います。
彼らが“なんとなく”でできているものを“なんとなく”ではできなくても、言語化されればできていき、少しずつ“感覚”に落とし込める選手たちも多い。
“感覚”には無意識や暗黙の領域もあるので、その全ては言語化できないと思いますが、それでも、天才たちの“感覚”を知り、触れて、想像することで、彼らが成し得ていたプレーを再現性高くプレーすることは可能なのではないか。それが今の私の仮説です。