苦痛を求めて彷徨う人間

 しかし、まず苦痛という点では、そう簡単な話ではありません。たとえば、ニューギニアなどで通過儀礼として行われる男子割礼は、絶対に苦痛の声をあげてはならないのです。顔をしかめることすらタブーです。少しでも痛がるそぶりを見せると、その時点で男らしくないとみなされ、大人の男として扱われません。

 集落にいられなくなり、親族まで屈辱的な扱いを受けます。だから、少年は麻酔なしで行われる手術に、涼しい顔で耐えねばならないのです。決して痛みのない鼻歌交じりで乗り切れる儀式ではありません。それに対して、女子の通過儀礼の場合は、たいていは泣いても喚いても許されます。

 また、宗教的根拠の有無を持ち出すと、宗教的根拠があるから続けてもよい、という話も出てきてしまいますが、これも無茶な主張でしょう。これを言い出すと、女性差別、LGBT差別、カースト差別など、何でも正当化されることになってしまいます。

 なぜ、このような残酷な通過儀礼があるのか。それは、通過儀礼には、大人になる前に子供であった自分を一度殺し、復活するという意味合いがあるからです。通過儀礼は残酷であればあるほど、苦痛が強ければ強いほどいいとも言えます。

 もっとも、女子割礼は女性だけではなく、男性にとっても大したメリットはありません。このような非合理なシステムが消滅するのは喜ばしいことですが、非合理なものは必ず消滅するというのは甘すぎる見方でしょう。逆に、非合理だからこそ存続するということもありえます。人間は、しばしば自ら苦痛を求めて彷徨う生き物なのですから。