やがて10月の株式市場暴落の後に、ニューヨーク連銀は割引率を4回引き下げて4.5パーセントにした(下図)。

(月別株価指数と連邦準備銀行再割引率、1925~39年)

とるべきであった政策

 こうして見てくると、建築や自動車その他の実需をともなったブームがある程度の成熟期を迎えて利潤率が下がる局面に入っていた2年間は、むしろ金融緩和がふさわしい政策であったように思われる。

 金融緩和によって「投機」はおさまらなかったかもしれないが、逆に株暴落後にはアメリカ経済の足腰はあれほど弱まらなかったかもしれない。

 後にニューディールのもとで連邦準備理事会調査部に配属されたラウチリン・カリー(Lauchlin Currie, 1902~1993)が述べていたように、当時の連銀の政策は貸付と投資の数字にのみ基づいて行われており、きわめて低い率でしか増加していなかった通貨供給量は、政策判断の材料とはならなかった。

 彼が正しく判定したように、1928年から29年にかけての事態は、貨幣所得の増加速度が財の生産の増加を上回ったために商品価格の高騰や利潤の肥大化が発生したというのではなく、むしろ大半の産業部門がフル稼働しつつもなお一部には不振が存在し、生産性上昇が利潤に吸収される過程をふくめて、財貨が安定した価格で消費される局面だと理解すべきだった(Lauchlin Currie, "The Failure of Monetary 2 Policy to Prevent the Depression of 1929-32," Jourmal of Political Economy 42-2 [April 1934] , pp.160-161.)。

 とくに、景気が明らかに底を打ったと考えられる1929年に入ってからの金融引き締め政策は、連銀がとりうる政策としてはまさに逆であった。

 なぜなら、建築請負額の減少やその他の資本投資が減退する兆候があらわれていた一方では、貯蓄額は減少していなかった。しかも、1920年代の貯蓄は耐久消費財購入目的に役立てられることが多かったのである。

 つまり1929年には、さもなければ失業する労働力を吸収するためには利子率を引き下げて投資の拡大をはかり、財の供給額にくらべて、いずれは不足が見込まれた所得を増加させることが必要だったからである。