世界経済の崩壊

 1920年代の世界経済はさまざまな不安定要因をかかえていた。第一に、第一次大戦が主要大国間の関係を変えてしまった。ヨーロッパ、とくにイギリスの経済力の低下と、それにかわるアメリカ合衆国の台頭が、資本主義システム全体を不安定にした。

 アメリカは、ニューヨーク連銀総裁ストロングの時期にはイギリス、フランスとの国際協力をスムーズに行ったが、彼の死後は連銀当局内部での対立を調整できなかったばかりか、国際協力にも消極的となった。

 ドイツでは、もともと賠償支払いのためにアメリカなどから大量の資金導入をしたのだが、連邦政府も地方政府も借入金を自明の前提のように費消する「過剰消費」的な傾向をもつにいたった。当時、賠償―戦債循環がまがりなりにも機能していた。

 すなわち、アメリカがドイツに資金を供給し、ドイツはその資金で経済復興をとげると同時に、賠償金をフランス、イギリスに支払い、フランス、イギリスはその資金で復興しながら、アメリカにたいして、戦債の元金と利子を返済した。ところが、アメリカの証券市場の過熱によって資金がヨーロッパに行かなくなるとこの循環は止まった。

 第二に、世界農業問題が深刻化した。ヨーロッパ諸国の自給努力と保護政策、開発途上国の生産増加、アメリカ農業の機械化の進展による供給力増加などによって、供給側の余力が増した。他方で、衣食生活の変化によって需要側がさほどの伸びを見せなかったから、農産物はしだいに世界在庫をふやしていった。

 なかでも国民経済上大きな地位を占めていた(1920年には第一次産業の雇用構成比は28.9パーセントだった)アメリカ農業所得の停滞は、1920年代の繁栄の足をひっぱる要素をはらんでいた。農業問題未解決のまま、1920年代末期には開発途上国から国際収支危機が広まっていった。

銀行の倒産

 第三に、第一次大戦後の世界経済のなかで、新たな耐久消費財、自動車、住宅によって景気を牽引してきたのはアメリカだが、そうした新産業を支えた内需も、生産性の伸びに遅れた賃金の伸び悩みや、農業地帯の不振によって1920年代末期には限界を迎えつつあった。信用販売の普及にもかかわらず中産階級の上層にそれら消費財の一定の飽和が見られると、購買力は縮小した。

 増大する需要に応じて設備拡張してきた企業の側は需要の頭打ちによってしだいに採算を悪化させたが、しばらくは株式ブームに支えられて現状を維持した。一般的に1920年代は上層の所得階層の人びとの所得の増加がきわだっていたのに、下層労働者の所得増加は控えめだった。

 最富裕の5パーセントの人びとが所得全体に占めるシェアは1919年の26.1パーセントから1929年の31.9パーセントに上昇した。一般の勤労者の所得が生産性の伸びに比して伸び悩んだのは、労働組合の弱体化とも関連する。組織率は1920年の12.1パーセントから、1930年の7.4パーセントへと減少した。

 耐久消費財支出はこのころ本格化した信用販売によって加速されていたので、都市住民の債務残高は増大した。また、農業生産拡大のために土地や機械を1920年代前半までに購入した農業経営者たちの債務も累積しつつあった。

 好況のもとでも農地の抵当権解除率は高く、連動するかのように地方の小さな銀行の倒産が相次いだ。こうした債務構造は、いったん景気が悪化してくると、不況の進行を加速させた。

 第四に、これまでの研究史で確認されてきたアメリカ国内の資金循環にかかわる事情がある。この時期に成長した巨大企業の多くは資金を銀行に依存せず、自己金融でまかなっていた。他方で、農民や都市民の預金を多く集めていた銀行は、巨大企業からの資金需要が期待できなかったために、中小企業金融や不動産担保貸付と証券担保貸付に乗り出した。

 しかも、しだいに、企業合同や投資会社設立などの実体経済とあまりかかわらない目的の貸付がふえていった。それらの資金の相当額が1920年代末期には株式ブームに吸い寄せられていったのである。