利上げ派の台頭

 金の流出は1928年年央に止まり、流入に転じた。外国証券のアメリカ市場での発行はわずかなものとなった。国内の金利に敏感な住宅建築が勢いを失い、高額の耐久消費財の購入が減速することは避けられなかった。

 建築産業の被雇用者数は1927年に160万人まで伸びたが、これがピークとなり、1933年には81万人と最盛期の半数となった。

新規住宅着工額(1920~39年)

 上図でわかるとおり、民間住宅建築はピークが1925年から26年にかけてであり、1928年までは公共建築とオフィスビルの需要によって住宅建築の落ちこみをカバーしていた。

 連邦準備関係者は、「株投機目的の」信用の過剰利用を抑制したいと思っていたし、「正当な」目的のためには、資金をより豊かにより低利で供給し、海外の金融への圧力を減らしたいと望む点では共通だった。だがその方策となると、直接的統制から、割引率の引き上げにいたるまで意見がわかれていた。

 1929年2月には各連邦準備銀行は「投機的証券貸付」を行わないようにせよとする金融引き締めのための「直接行動」を連邦準備理事会から要請された。3月ごろにはヨーロッパの利上げの予測から路線転換をして利下げに踏み切るべきとの意見も浮上したほどだったが、5月ごろには直接統制を論ずる人びとは守勢にまわり、利上げ派が台頭してきた。

 だが、国内金融がタイトになる秋が間近いことと、ヨーロッパの情勢の悪化から悲観論も出てきた。ある連銀の理事は「秋にかなり決定的な景気停滞が起きる方向に向かっているのではないかと私は感じている」と書いた(Ibid., p.43.)。

 直接的引き締め行動は6月12日には中断された。だがこの間にある程度、連邦準備加盟銀行のブローカーや株ディーラーへの貸付が減少したことはたしかだとしても、それ以上に顧客向けの通常融資が減少したことが、市中金利を上昇させ、債券価格を下落にみちびいたのである。

 8月8日にニューヨーク連銀は割引率を5パーセントから6パーセントに引き上げ、同時に120日満期以内の手形買入レートを0.125ポイント引き下げた。これは投機目的の貸付を防ぎ、債務返済その他の緊急性のある手形の買入によって市場に資金を供給するためだと説明された。

 ちなみに、イングランド銀行が9月26日に公定歩合を5.5パーセントから6.5パーセントへ引き上げたことが、ニューヨーク株暴落の開始に多少影響したかもしれないが、もともとアメリカ自体のこの2年間の金利上昇がイギリスをはじめヨーロッパ諸国の困難を倍加させていた事情を忘れるべきでない。