金融引き締め政策

 だが、こうした事情があればすぐに恐慌になるわけではない。国際的な貿易金融の微調整をふくむ各国の協調的な行動と、国内における適切な金融政策がつづけられれば、景気の下降は防げないとしても、それを幾分なりともなだらかなプロセスにすることは可能であったろう。

 ところが、ニューヨーク連銀総裁ストロングの死の前後から、連銀の金融政策が引き締めの方向へ、踏み出してしまった。ストロングは主要国との協調には熱心で成功をおさめる場合が多かった。1927年7月のイギリスのポンド危機にさいしては、アメリカ保有金の一部をポンド為替に換えること、そしてアメリカの公定歩合の引き下げと買いオペレーションに同意した。

 一般的に、1920年代は金がアメリカに集中したので、アメリカが大規模な資本輸出を行って他国の金やドル為替準備をふやす方策は正しかった。

 いまひとつの金の集中国フランスの場合、1926年の「事実上の」安定以前はフランが減価していたので、フランス銀行ではドルやポンド為替をかなり蓄積した。ところが、とくに1928年の公式のフランの安定以降は、フランの過小評価もあって、蓄積した外国為替準備を金に換えようとする動機がはたらいた。これは、とくにロンドンにとっては大きな不安定要因となった。

 以上の経緯は、アメリカが資本輸出を縮小し、あるいは連銀が引き締め方向に政策を転換すれば、諸外国の外国為替準備が減少し、より多くの金がアメリカに集中するだろうこと、したがって、国際経済のなかの通貨的に弱い諸国ほど大きなプレッシャーを受けて経済をさらに弱体化させることを意味した。

 そして、1928年後半から29年にかけて、まさにそうした事態が起きたのである。

 1928年初頭から連邦準備理事会(FRB)と各連邦準備銀行は売りオペと割引率の引き上げの両方で引き締め政策に転じた。もっとも、こうした政策に賛成する委員ばかりではなかった。引き締め政策に一貫して反対したある委員はこう述べている。

「株式市場活動を制限する目的で割引率を引き上げることは、連邦準備理事会の権限内の他の施策がその目的を達成するのに失敗したときにのみ行われるべきである。銀行信用がブローカーズ・ローンへの投資に間接的に用いられるからといって、農業やビジネスを罰することには賛成できない」(Lester V. Chandler, American Monetary Policy, 1928-1941 [Harper, X 1971] , pp.42-43.)。

 また別の委員はこう述べている。「商業やビジネスをたすけるために割引率を固定することは、株式取引所の売買以外のすべての種類のビジネスに適用される。しかも、連邦準備理事会に入ってくるビジネス・レポートは株式取引所(おそらく国全体の信用の12~15パーセントを扱っている)をのぞいては、すべてのビジネスは抑制でなく刺激を必要としていることを正しく示唆している」(Ibid., p.67.)。

 ニューヨーク連銀が他の連銀にならって割引率を4.5パーセントに引き上げたのは5月18日である。7月末までに、各連銀割引率は4.5~5パーセントとなり、政府証券売りオペ総額は4億ドルに達した。その後、年末までは大統領選挙もあって、それ以上の施策は採られなかったが、株式市場の急騰が抑制されない一方で、引き締め効果はじわじわと経済に浸透していった。