地味な30代
時期は前後するが、小沢は73年、田中を支援していた新潟県内の建設会社の娘と結婚している。時の首相・田中が父親代わりとして結婚式に出席したエピソードは有名だ。お見合いから挙式までわずか3カ月。事実上の政略結婚である。小沢の妻の妹が、竹下登の実弟・亘と結婚し、竹下とも姻戚関係となる。上司から可愛がられて姻戚関係を結ぶパターンは出世の観点からみれば、王道中の王道である。
79年3月、自民党岩手県連会長に就任した。36歳の若さである。県連のベテランたちが統一地方選をめぐる面倒な地元調整を小沢に押しつけた事情もあったが、期待に応えて同年4月の統一選を乗り切る。「ベテランの顔を立て、若手の自分が泥をかぶる」スタイルはいつの時代でも好まれるのは言うまでもない。
同年10月の衆院選後、自民党は分裂寸前とまでいわれた熾烈な党内抗争「四十日抗争」を繰り広げ、派閥間対立が頂点に達した。浜田幸一が自民党本部内のバリケードを撤去するなどしたテレビ的にも〝派手〟な政局だったが、当選4回の小沢には出番はない。
80年6月、大平正芳首相の急逝により、自民党は史上初の衆参同日選で圧勝した。小沢は38歳、すでに当選5回を数えていたが、まだめぼしいポストには就いていない。
小沢の30代は非常に地味だった。たとえば、竹下登、海部俊樹、麻生太郎、安倍晋三、岸田文雄、小泉進次郎ら「若手ホープ」が経験してきた重要ポスト・青年局長も経験していない。70年代はまさに「雌伏」と表現できる。
小沢が表舞台に出るのは1982年まで待たなければならない。
(続く)