転機は父の急逝だった。佐重喜は68年5月に死去(享年70歳)し、息子の小沢が後継に収まる。佐重喜は藤山愛一郎派であったが、関係者の助言などもあり、当時自民党幹事長として辣腕をふるっていた佐藤派の実力者・田中角栄と接点を持つ。

 小沢本人へのインタビューはもちろん、家族や関係者が実名で登場する大下英治の『一を以って貫く 人間小沢一郎』(講談社文庫)によると、小沢が田中に初めて会ったのは69年4月中旬だという。面会場所は田中の私邸・目白御殿だった。

 田中は小沢の前で「よし、思い切ってやってみろ。親の七光りは当てにしてはいけない。戸別訪問は3万軒だ。どこの神社の階段が何段まであるかまで、一木一草を知れ。選挙区の人間を、とことん知りつくさねばいかん」「辻説法は5万回だ。3分でも5分でも辻立ちをして、自分の信念をしゃべれ」とまくしたてた。この戸別訪問と辻説法の徹底は、後に小沢が若手や新人候補を指導する時にも、口グセのように繰り返し主張した方法論である。

 小沢番を長く務めた全国紙の政治部記者は「小沢の教えに影響を受け、それを応用して選挙に強くなった議員は多い。例えば2000年から選挙区で勝利し続けている細野豪志(無所属、自民党二階派)は、小沢流選挙をうまく取り入れている」と指摘する。

 小沢は69年12月の衆院選に27歳で出馬し、トップ当選を果たす。この時点でも、まだ大学院に籍があり、社会人経験は皆無である。小沢は現在に至るまで政治家の仕事しかしていない。

吐くまで飲む

 1970年1月14日、国会に初登院した小沢はあいさつのため、再び田中の事務所を訪れる。田中は小沢に向かって「一郎は大学院生だ。他の同期生と同じ気持ちで日々を過ごすなよ。どんな部会であろうと、必ず出て勉強しろ」(『一を以って貫く』)と言い放った。

 当選同期には、福島県議出身の渡部恒三(後に衆院副議長)、茨城県議会議長を務めた梶山静六(後に官房長官)などがひしめいていた。当時の最年少代議士だった小沢の注目度は低く、〝四世議員〟である小泉進次郎が2009年に28歳で初当選した際のメディアの注目ぶりとは雲泥の差だった。

 社会人経験も政治経験もない小沢は、田中の助言に従い、真面目に自民党本部の部会に出席し、国会閉会中はひたすら地元を回った。田中が言った通り、七光りは通用しない。父親の地盤を継いだとはいえ、支持者がすんなりと応援してくれるほど甘い世界ではなかった。