小沢は自著の中でこう述べている。

「二世だからといって、それにあぐらをかいていたら、一回は当選できても、その後はどうなるか分からない」「選挙区の人たちは、僕がはたして国会に行くにふさわしい男かじっと観察している。だから、徹底的に選挙区を回ることにした」『小沢主義 志を持て、日本人』集英社文庫)。

 若い時代の苦労を物語る印象的なエピソードがある。小沢の秘書出身で、陸山会事件で有罪判決を受けた石川知裕元衆院議員の『悪党 小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)にこんなくだりがある。

「岩手では日本酒が飲めないと政治家は務まらない。会合という会合で酒をすすめられることになる。集まった一人ひとりからお猪口になみなみと酒を注がれ、一気に空けるのが礼儀だ(中略)。会合をはしごする小沢の車には、必ず用意しなければならないものがあったという。塩水を入れたやかんだ。一つの会合を終え、小沢を車に乗せると、たくさんの人が外まで見送ってくれる。手を振る人がみえなくなった途端、小沢はこう指示する。『ここで止めろ』」「小沢はドアを開け、そのやかんの塩水を口へ一気に流し込む。すると、先ほど支援者から頂いた酒が口から全部出てくるのだ。吐くのである。『口から弧を描くようにきれいな線になって出てくんだ』と、(住み込み書生第1号の)藤原(良信元参院議員)先生は得意げに話していた」

 小沢は徹底的に地元に張り付いた。地元に戻ると、1日100軒以上の戸別訪問、100以上の後援会支部でのミニ集会を徹底的にこなすスタイルを貫いた。田中の教えを忠実に実践したといえる。「言いたいことを言い、自分が信じていることを実行するためには、選挙に強いということが大前提となる」(『小沢主義』)と強調している。

国会質問は嫌い

 小沢は若いころから、地元受けを狙ったスタンドプレーを好まなかった。

 1970年4月17日、衆院文教委員会で初めての質問に立った。私学振興財団に関する法案についての質疑だった。憲法論をベースにした質問で、原理原則論を好む小沢らしさが感じられる。当選まもない政治家はたいてい、国会質問で有権者にアピールしようとするが、小沢はそういった活動には新人時代から興味がなかった。試しに筆者が「国会会議録検索システム」で検索をかけたところ、小沢の初当選から10年間の国会での発言はわずか33回。当選同期の羽田孜(後に首相)が87回、渡部が71回であることを考えると、半分以下である。